ラルフの欺瞞/むかしむかし


 亡命貴族から、ウテナ王子への転移。

 荒唐無稽だと思った。

 他の者の口から出れば、自分だって信じられない。

 けれどタルキアの皇帝は、全く疑問を差し挟まなかった。全てを真実として受け容れてくれた。

 遠い東国の皇帝だからだろうか。

 それともこれが、皇帝の徳というものなのか。


 「誤解を抱かせてしまったと、そなたは言った」

 宮殿に戻り、温かいお茶で体を温めると、皇帝は言った。

「はい。ジウの体に転移した私は、シャルワーヌのことは忘れてしまっていました。自分がエドガルドだと自覚した私は、どうしたことか、ラルフのことを、前世の恋人だったと思い込んだのです。その理由はたぶん……」


 前世で、彼と寝たからだ。


「ラルフ・リールとは体の関係があったのか?」

 残酷にも皇帝が問う。

「……」


 答えられなかった。

 タルキアでは男同士の関係は忌み嫌われる。処罰の対象となり、砂に埋められて頭部に石を投げつけられる投石の刑で惨たらしく殺されることさえままある。


「心配せずともよい。タルキアは生れ変わらねばならぬ。昼間話した王子同士の殺し合いは廃止されるべきだし、恋愛は自由であるべきだ。アンゲルやユートパクスはそうなのであろう?」

「御意」

「残りの年数がどれだけあるかわからぬが、朕の御代に少しでも、タルキアの古き悪しき慣習を打ち払いたいと思っている」


 この皇帝なら信じられると思った。


「一度だけ、体を許しました」

「新しい体に転移してからは?」

「ございません」

「シャルワーヌには?」

「そちらも」


 どこか満足げに皇帝は頷いた。彼の瞳が一段と熱を帯びたように感じられた。


「前世でリールは、そなたの恋人などではなかった。そうだな?」

「……はい」

「なのに、生まれ変わったそなたにリールは、自分がそなたの恋人だったと主張したわけだ。彼にとってそなたは、前世から続く運命の人だと」


 運命の人。

 重い言葉だと俺は思った。「運命」を、いともたやすく覆そうとしている今は、なおさら。


「そなたには、シャルワーヌの記憶が抜け落ちていた。前世のそなたの真の愛人の記憶が」

「御意」

「おかしいではないか」

「は?」

「なぜリールは、自分には権利のないことを、堂々と主張したのだ?」

「権利がない?」

「彼は知っていた筈だ。自分が一度も、前世のそなたに愛されたことがないことを」

「……」


 体だけの関係。ただ、性欲を処理しただけ。

 自分がラルフにした残酷な仕打ちを改めて言葉にされ、俺は色を失った。それなのにラルフは、亡命貴族のエドガルドを保護し続け、ジウに転生した後も、あんなにも暖かく愛してくれた……。


「リールは、シャルワーヌ・ユベールについて知っていた。かなり詳細に。なぜだと思う?」


 ユベールという姓や、軍での階級、そして彼のおかれた複雑な環境。それらは調べようと思って調べなければわからないことだ。そしてラルフは、……。


「私が名前を出したから?」


 或いはシュールで渡した通行証……東の国境警備隊長シャルワーヌの署名入りの……を通して。

 いずれにしろ、俺を通して知ったとしか、考えられない。


「それにしては詳し過ぎる。たとえ軍人であると気がついたとしても、敵国の軍人であれば、所属や階級までは容易に行きつけないものだ。ましてや兄弟や親戚同士で敵味方に別れたと知ることは、到底叶わぬはず」


 皇帝は手厳しかった。思わず狼狽えてしまう。


「ラルフは、アンゲルの情報機関に伝手があります。そこを通して、シャルワーヌについて調べたのでしょう」

「なぜ、彼はその男のことを調べたのか」

「……」

「そなたには答えがわかっているはずだ」

「俺の……恋人だから?」

「リールは知っていた。前世のそなたの恋人は、ユートパクスの将軍、シャルワーヌ・ユベールだったということを」


容赦なく皇帝は続けた。


「リールはまた、正確に認識していた。自分は、そなたの恋人などではなかったということを。それどころか、一度でも、そなたから愛されたことなどなかったということを。それで彼は、そのシャルワーヌという男と故意に入れ替わったのだ。そなたの恋人の座を手に入れる為に。幸い……、そう、


 優美なタルキアのカップが俺の手から滑り落ちた。床とぶつかり、粉々に砕ける。


「そなたはリールに対し、引け目を感じる必要など、全くない。リールはそなたを騙したのだから」

「それは……違うと思います。ラルフは俺を騙したりしない」


 ジウに転移してからのことが、走馬灯のように脳裏を過った。

 心配そうな、過保護なまでの気遣い。

 いつでも見守ってくれている優しい眼差し。

 ジウをエドガルドだと認めてくれた時の強い抱擁。

 そして、信頼。


 18歳の誕生日まで待つと誓った時の、彼の決然とした態度を思い出す。そして、あの奇妙な紳士同盟。あれは、シャルワーヌにこそ正当な権利があると知っていたからなのか。


「ラルフはいつだって、俺を最優先に考えてくれていました」


 再び涙が溢れ出た。

 そんなにしてまで、彼は俺を手に入れようとした。記憶の空白を利用して。シャルワーヌとの日々を塗りつぶそうとしてまで。

 それなのに今、俺は、ラルフを捨てようとしている。違う。そもそも俺はラルフを捨てられる立場にはいない。俺がしようとしているのは、再び彼を傷つけることだ。


 俺をじっと見守っていた皇帝が音を立ててカップをテーブルに置いた。苦い物を口に含んだような顔をしている。


「充分ではないか。そなたの信頼は、あの男には過ぎた褒美だ。だが朕は、そのシャルワーヌという男の味方をするつもりもない」

「陛下。それはどういう……」


俺の問いかけを、皇帝は無視した。


「疲れたろう? 今宵はもう、休むがよい」

「ですが、」

「眠りが訪れるまで、朕が物語を語って聞かせよう」

「物語?」

「わがタルキアに伝わる昔話の数々だ。皇帝の無聊を慰める為、麗しきおみなが集めた話よ。聞くがよい」


 皇帝はベッドを指し示した。

 眠りに就くには早すぎる時間だ。ましてや、皇帝の御前である。

 だが、あまりに疲れていた。いろいろなことを思い出し、感情を揺さぶられたせいで、体を直立に保つことが困難なくらいだ。


 誘導されるままにベッドに横になった。召使の手で、ふんわりとした羽根布団が掛けられる。

 ベッドサイドに皇帝が腰を下ろした。布団から出た俺の手を握る。

 魚の腹のような、白くたおやかな手だ。


「むかしむかし、

 遠い国の今はもう滅びた王朝の……

 ……」





 ここへ来て、どれだけの日数が経ったのだろう。

 未だに俺は、タルキアの宮殿から出ることができずにいる。


 毎日のように皇帝が訪れ、よもやま話をして帰っていく。

 俺の体がまだ本調子でないというのは、あながち間違いではなかった。月下麗……キャプテン・アガの部下たちは、相当強い催淫剤を使ったようだ。


 ふらつき、時には起き上がることさえ困難な俺をベッドに連れ戻し、傍らの椅子に座って皇帝は、いろいろな物語を語ってきかせた。


 とある国の盗賊のお話。

 アイスクリームを食べたがった王女の話。

 遠い昔、山の上から火を盗んでくる話。

 燭台に取り憑いた魔神の話。


 組めども尽きせぬ泉のように、皇帝の口からは物語が溢れ出てくる。


 皇帝はまた、自ら作曲した曲を聞かせてくれることもあった。不思議な形をした楽器を抱え、張られた弦を掻き回すように奏でる。嫋々とした節は、今まで聞いたこともない不思議な調べだった。時には、切ないほど細くたおやかな声で歌を合わせることもある。

 うっとりと聞いているうちに、次第に瞼が重くなり……。


 このままではいけない。

 俺には過酷な試練が待っている。ラルフに別れを告げなければならない。彼の愛を受け容れられないまま、船に残ることなどできない。

 一刻も早く、ラルフには幸せを掴んでもらいたい。そうするには、俺がいたら邪魔なのだ。


 けれどこちらから別れを告げられたら、ラルフは悲しむのではないか。あの男のことだから、自尊心が傷つけられるとか、そういうことはないだろう。だが、悲しい顔ができないまま、悲しみ続けるラルフを見るのはいやだ。嘆きもせず怒りもせず、ただぼんやりと俺を見返す青い瞳を見るのが怖い。


 むしろ、このままタルキアの宮殿にいた方が楽だ。

 だが、それはできない。

 ラルフに、心から愛する人と巡り合って欲しい。俺のことなど忘れて、どうか……。



 「既に充分、体も回復しました」

ある日、俺は皇帝に告げた。


 ディオン港に停泊していたオシリス号は、イスケンデルへ向けて出港してしまった。オシリス、あるいはリオン号へ戻るには、タルキアから船を出してもらう必要がある。または、ヴィレルかルグランに伝令を飛ばしてもらうか。


「長らくの滞在をお許しいただき、陛下には感謝の気持ちでいっぱいです。つきましては、一度アンゲル戦艦に戻りたく、……」

「そなたは不思議には思わないのか?」


 船を出してほしいという俺の願いは、口にする前に遮られてしまった。口を挟ませるゆとりを与えず皇帝は続けた。


「一度死んだそなたは、前世の記憶を継承して生まれ変わった。だが、抜け落ちた記憶があったという。前世の恋人のことだ」


 ジウに転移した俺からは、シャルワーヌのことをなにひとつ、思い出せなかった。


「なぜそなたは彼のことを忘れてしまったのか。否、

「忘れなければならなかった……?」


 今までそんなことは、全く考えたことがなかった。シャルワーヌを忘れたのに、理由なんてあるのか? ただ、転生の事情によるものではなかったのか。

 ジウ王子の体が、己の魂を手放す直前に自分が飲み干した「恋人たちの毒」の記憶を失ってしまったように。


「そうだ。そなたには、彼のことを忘れなければならない理由があったのだ」

 皇帝は自信ありげだった。


「どのような理由でしょう。私には全く心当たりがないのですが」

「朕にもわからぬ。だが、そうだな、こう言い換えよう。なぜそなたは、ここへ来て、彼への愛を思い出したのか」


 それは、キャプテン・アガが、休戦協定を拒否したからだ。にべもない彼の拒絶は、それと酷似した前世の記憶を蘇らせた。

 1年ちょっと前、膠着するエイクレ要塞での戦闘の際、アンゲル海軍から発せられた休戦協定を、オーディン・マークスは退けた。

 そして。


 ……「今でも俺が抱けるか?」


 決裂した会談の後、長いキスをし、オーディンがねだってきた。俺は彼の願いを拒否したが、あの後、何かが起きたというのだろうか。

 互いに敵対し、憎み合うようになった何かが。

 もしそうだとしたら、それはいったい……?


 「月下麗催淫剤を排出させた後、薬師が香を焚いたのだ」

 皇帝は言い、いたずらっ子のような目で俺を見た。

「精神を落ち着かせ、苦痛を和らげる為に。しかしこの香には副作用があってな」

「副作用ですって?」


 すでに俺は、彼の手の中にあった。早く帰らねばならないという焦りは消え、皇帝の話に引き込まれている。


「さよう。何だと思う?」

「見当もつきません」

「自白作用だよ。『安らぎの息吹』には、強い自白作用がある」

「自白……」

「意識の底に深く押し込め、そなた自身にさえ隠していた真実。それを、『安らぎの息吹』が暴き出したのだ」


 「安らぎの息吹」という香には、潜在意識に働きかける作用があるという。

 シャルワーヌを恋人だったと思いだしたのは、この「副作用」の効果だと皇帝は言う。


「だが、それで終わりではない。そなたはまだ、何かを隠している」

「しかし、いったい何を……そのように、自分自身にまで?」

「知りたいと思わぬか?」


 完全に俺は、皇帝の術中にあった。


「はい」

「今一度、薬師に香を焚かせよう。そなたは、忘れていたそなた自身と向かい合うのだ」







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