崖の下の鳥籠
宮殿の庭は広大だった。あちこちに色とりどりの花が咲き乱れ、中には見たことのないような珍しい花もあった。
美しい花壇に見向きもせず、皇帝は庭の奥へ向かって歩いて行く。
園庭に張り出して、崖があった。その崖の下に貼りつくように平屋の建物が広がっている。
立ち止まり、皇帝がじっと見つめる。
「鳥籠だ。王子たちが暮らす後宮だよ」
鳥籠という言葉通り、粗末な建物だ。平屋では眺望も悪かろう。
もちろん、そうした感想は差し控えた。ここは王族の居住地なのだから。
前を向いて歩きながら、皇帝は問わず語りに語り始めた。
「タルキアでは、王の生存中、王の子らは、後宮の中に閉じ込められて暮らす。時が経ち、王から位を譲られた者のみが、後宮を出て、外の世界を知ることを許される。残りの王子たちがどうなるか、知っているか?」
「僧侶になるのでしょう? それか、軍に入って兄弟である王を守る」
確か、ウィスタリア帝国ではそうであったはずだ。革命前のユートパクス王国もまた。
もちろん、ウアロジアの国々では、王子たちが閉じ込められて育つということはない。タルキアでは、彼らの保護の為にそうしているのだろうか。それにしても極端だと思った。
皇帝の顔に薄い笑いが浮かんだ。
「処刑されるのだよ」
「処刑!」
驚きを通り過ぎて呆気に取られた。
淡々と皇帝は続ける。
「多すぎる皇族は、国に不幸をもたらす。だから、処刑されるのだ。処刑されたくなければ、自分が即位するしかない。最も優秀な者が即位する決まりだから、自分の実力を見せつけなければならない。ライバルがいれば、これを殺す」
殺す。
だが、そのライバルというのは……。
「そうだ。必要なら、自分の兄弟を殺すのだ。罠を仕掛け、あるいは、剣を取って戦ってでも。王になることがなかった王子らは、生れてから一度も後宮を出ることがないまま、死んでゆかねばならないのだから」
「そんな……」
あまりのことに、唇がわなないた。
「即位する前、王がまだ後宮にいるうちから、彼と共に学び、武芸を磨き合った者が、宰相となる。前王の重臣たちを追い出し、実権を振るう。新王の格段の理解と支援の元に。もちろん、王子が王座に昇ることがなかったら、その者もまた、命を奪われる。子どもの頃から仕えてきた王子と共に」
現在の皇帝、カンダーナ2世にとって大宰相グラントは、まさに生死を共にしてきた同志なのだ。
共に学び、剣の腕を磨き合い、そして、王子の兄弟を陥穽に陥れ、或いは戦って殺し……。
「あの者は朕を裏切らぬ。あの者の息子も、そやつが率いる軍もまた」
ふっと、皇帝の表情が緩んだ。この人の特徴である、つかみどころのない神秘的な笑みが浮かぶ。
「だから大使は安心して、ティオンの都を楽しむがよい。ここは東方と西方の要、麗しの都ぞ。よきものがあまた集められておる」
では、講和は守られるのだ。ユートパクス軍は名誉ある撤退をし、ラルフの功績は残される……。
ほっとした。
「ですが、オシリス号では、私の帰りを待っていることでしょう」
宿泊する予定はなかった。ラルフの伝言を伝え、すぐに帰艦するはずだった。
タルキア軍のイスケンデルからの撤退に皇帝が同意しなければ話が長引くことは、ヴィレルも予想していたと思う。だが、これ以上ここに留まれば、さすがに彼も心配するだろう。
皇帝は全く動じなかった。
「アンゲル船には、大使は具合が悪くなったので、暫くの間ティオンの宮殿で預かると伝令を遣わした。戻って来た伝令が言うには、船は一度、イスケンデルへ帰るそうだ」
ヴィレルの判断はもっともだ。
ただでさえ、ザイードからタルキアまで、広いメドレオン海を封鎖しているのだ。2隻しかないフリゲート艦の片方が、いつまでもタルキアの港に停泊しているわけにはいかない。
密かに俺は安堵した。
シャルワーヌへの愛を思い出し、新たに自覚さえした今、俺はヴィレルに会いたくなかった。ラルフの古い友人、彼に命を預けて共に戦った戦友に。
しかし、皇帝の腹が読めない。このままここに留まるべきなのだろうか。
肩を抱かれた。白い華奢な指先が見える。そのまま、やや強引に歩き始める。
皇帝が、後宮の見えない場所へ行きたがっているのだとわかった。
「朕がなぜ、そなたをここに連れて来たかわかるか?」
「私に大宰相を信頼させる為、ですね?」
皇帝である自分が不戦派である以上、大宰相がユートパクスに攻め入るわけがない。なぜなら彼の恭順と服従の根底には、苦楽を共にしてきた皇帝への連帯感があるから。
皇帝はそう言いたかったのだと、俺は解釈した。
例のあの、神秘的な笑みが浮かんだ。
「兄弟で殺し合うのは、なにも特別なことではない。ユートパクスの将軍だけではないということだ」
「……え?」
咄嗟に理解できなかった。
「シャルワーヌ・ユベール。同じ血の流れる者同士で殺し合っているのは、そなたが愛している男だけではない」
シャルワーヌ・ユベール。
皇帝の口から出たその名に、体が固まった。
ここは、遠く離れた異郷、タルキアの宮殿。東西の美しい花が咲き乱れ、香しい潮風が吹き抜ける麗しの都。
なぜここにシャルワーヌの名が?
確かに彼は、王党派である兄弟親族と敵対している。どうして皇帝は、その事実を知っているのだろう。
「ラルフ・リールから聞いたのだ。タルキアに着任してすぐ、彼はティオンまで挨拶に来た。その時に」
3年前のことだ。
シテ塔を脱獄したラルフの次の任地が、ここ、タルキアだ。
すでにユートパクスとの戦闘が始まっていた。俺と亡命貴族の仲間たちも、一時帰国した彼と同行を希望し、リオン号に乗り組んだ。
やがてオーディンがタルキア遠征に乗り出すと、俺達はエイクレ要塞に立て籠り……。
「3年前、初めて謁見に訪れたラルフ・リールに後宮を見せた。そなたと同じように。すると彼が、シャルワーヌの話をしたのだ。ユートパクスにも、一族で殺し合う運命に陥った将軍がいる、と」
なぜラルフは、シャルワーヌについて、そこまで詳しく知っているのだろう。
オーディンの遠征軍の将校は大勢いる。敵軍の将軍として名前と経歴くらいは知っていたとしても、細かな事情、家族の内情までは把握しきれない。
自発的に調べようとしない限り。
ましてシャルワーヌ軍は、オーディン軍と離れ、遠く上ザイードに在留していた。オーディンのタルキア遠征にも参戦していない。
ラルフがシャルワーヌに会ったのは、去年、上ザイードに来た時が初めてのはずだ。あれは、ウアロジア大陸でのユートパクス敗戦を伝えに来たのだ。ユートパクスの上ザイード駐留軍に、これ以上無益な戦いを続けさせないために。
それ以前だって、ラルフとシャルワーヌの直接の接点はない。シャルワーヌはずっと東の山岳地帯で戦っていたし、ラルフはアンゲル寄りの西海岸で活動していた。
アンゲル海軍将校として、ラルフが興味を持つ要素は皆無だというのに、シャルワーヌについて、ラルフはかなりの事情を知っている。
俺は、ラルフにシャルワーヌの名を告げただろうか。
確かに、初めてラルフに会った時、シャルワーヌの署名入りの通行証を渡したが……。
「その男は、ラルフ・リールの恋敵なのだと」
突然皇帝が言い放ち、一瞬、心臓の鼓動が止まった気がした。
「陛下、……今、何と?」
「あの時、リールは酔っていてな。酒も飲めぬ男は、タルキアでは信用できぬゆえ」
くすりと皇帝は笑った。
「ゆえに、あの男の本心だということだ。自分には愛する者がいると、リールは言った。しかしそれは片恋だと。シャルワーヌという将軍は、長いことラルフ・リールが片恋を抱いている相手の、愛人だ。つまり、彼が憎んでも余りある男だということだな」
……知っていた?
シャルワーヌが前世の俺の恋人だということを、ラルフは知っていた。
知っていて、隠していたと?
ジウに転移した後の俺に。
シャルワーヌが恋人だったという記憶を失ってしまった俺に。
……片恋。
俺も俺なりに、ラルフのことが好きだった。ただ、俺にはシャルワーヌがいて……。ラルフの愛を受け容れなかったのは、俺なりの誠意だったのだ。
俺なんかに構わず、他にいい人を見つけてほしかったから。ラルフは幸せになるべきだ。
「エドガルド・フェリシン。ラルフ・リールの想い人の名だ。思っていたのよりずっと若い……。大使としてここに来ると知って、会うのを楽しみにしていたのだ」
大使の名として、ウテナ王子の名を使うわけにはいかない。だから、エドガルドの名を通してあった。亡命貴族であった俺の死は、わざわざ外国にまで知らせたりはしない。
皇帝の口から出てきた「ラルフ・リールの想い人」という言葉は、とてつもなく重かった。
うっすらと浮かんでいた皇帝の笑みが、すうーっと消えた。
「だが、そなたが愛しているのは、気の毒なラルフ・リールではない。ユートパクスの将軍、シャルワーヌ・ユベールだ」
再び皇帝が胸を突き刺す。
「意識を失っていた間、そなたはずっとその名を呼んでいたよ。目を覚まして一番先に口にしたのも同じ名前だ」
「……」
返す言葉もなかった。俺はこの人の前に、素のままの自分をさらけ出してしまった。
皇帝が合図をすると、従者が進み出た。
鳥籠を捧げ持っている。
皇帝は鳥籠の戸を開けた。
一瞬ためらい、オウムは頭から鳥籠の外へ出た。
不安定な態勢のまま、色鮮やかな翼を広げる。そして、大空高く舞い上がっていった。
「鳥を檻に入れておいてはいけない。後宮の王子たちと同じだ」
小さくなっていくオレンジ色の点を見つめながら、皇帝はつぶやいた。
◇
「鳥を逃がしてしまって、大使は悲しいのかな」
青く輝く空にオレンジ色の点がとうとう消えてしまった。相変わらず空に目を向けたまま、皇帝が問う。
「はい。とても悲しく存じます」
頬を涙が伝っていく。溢れる涙をぬぐいもせず、俺は肯った。
「逃がさぬ方が良かったか」
僅かに逡巡を混じえた声。
「いいえ。逃がして頂いて幸いでした。鳥の為にも……私の為にも」
「なら、どうして泣いておるのか」
「私は大切な人を失いました。いえ、……」
最初からラルフは俺のものではなかった。俺は一度だって彼を受け容れたことはない。
ラルフには幸せになってもらいたかったから。俺なんかに構わず、他にいい人を見つけてほしかった。だから……。
たった一度だけ、絆されたことがある。
俺の死の少し前のことだ。
俺はユートパクス陣営から帰って来て、シャルキュ太守の勧めで酒を飲み……。
あれは、オーディン・マークスから休戦協定を拒否された直後のことだった。それまで細心の注意を払ってラルフを寄せ付けなかったというのに……あの晩に限って!
オーディンが休戦協定を拒むことは最初からわかっていた。だからそのショックで我を失っていたのだという言い訳は通用しない。
夕食の際にシャルキュ太守から飲まされた酒のせいでもない。俺は酒に飲まれたことなど一度もない。
でもそれが、たった一度の関係が、ラルフに誤解を抱かせてしまったのだ。
「私はラルフにとても残酷なことをしました」
シャルワーヌがいる以上、どうしたって俺は、ラルフを受け容れられない……。
「そうかな」
慈悲深く優しい声だった。
途端に俺は、この東の帝国の皇帝に、全てを話してしまいたい衝動に駆られた。
前世の死。
異国の王子への転移。
忘れてしまっていた愛する人。
大切な友人、そして恩人でもある人に、誤解を抱かせてしまったこと……。
荒唐無稽な話だ。とても信じてもらえるとは思えない。
けれど気がつくと、俺はとつとつと、自分の物語を紡ぎ出していた。
東の帝国の青く広大な空の下、色とりどりの花が咲き乱れる美しい庭園で。
一言も口を挟まず、じっと耳を傾ける東国の皇帝の前で。
「日が暮れると庭は寒くなる」
話し疲れて口を噤むと皇帝は言った。
「宮殿に戻ろう」
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