オウムと護符


 医師の持ってきた苦い薬を飲んでも、体の興奮は一向に治まらなかった。できることならカンダーナ皇帝には部屋を出て行ってもらいたかったが、彼はベッド脇に留まり続けている。暗くした部屋の中で、東国の皇帝の目だけが光を孕んで見える。


「薬が効くまで小半時ほどかかる」

「はい。……んんっ」


 必死で堪えるが、鼻から嬌声が抜けるのを抑えることができない。


「苦しいかろう。遠慮せずともよい」


 先端に集まった熱を追い出そうと伸びていた手を慌てて引っ込めた。

 いくら毛布の下とは言え、皇帝の御前だ。無礼も甚だしい。


「いや、それではいかんな。わが将校どものしでかした不始末だ。朕自らの手で静めて遣わそう」

「!」

 一瞬、懊悩を忘れた。

「とんでもないことです」


 何を言っているのだ、タルキアの皇帝は。

 猛り立った俺の体を慰めてくれるというのか? 御手を使って?

 冗談じゃない。

 込み上げてくる喘ぎを呑みこみ、俺は体を丸めた。


「遠慮せずとも好い。同じ男だ」

 それが問題なのだ。好きでもない男に身を任せたくはない。

「決して遠慮では……くっ」

「安心するがいい。この件を外交上の取引で使う気はないぞ。朕は大宰相とは違うのでな」


 くすくすと笑う。

 ぎょっとした。

 外交上の取引? どういうことだ?


「冗談だ。アンゲル人は冗談が好きだと聞いた。だが、大使、そなたはウテナ人だったな」

「はい」

この機を逃さず、俺は奏上した。

「ウテナでは、親族以外に肌を触れさせることはありません」

「そうか」


 案外あっさりと、皇帝は申し出を引っ込めた。それなのに、一向に部屋を出て行こうとしない。体が疼き、毛布の下で身を丸めたまま、俺は浅い呼吸を繰り返す。


 「キュれレキュれレキュれ……」


 突如として鳥の鳴き声が降って来た。部屋の梁に止まったオウムが見下ろしている。色鮮やかな羽が一枚、はらはらと舞い落ちてきた。


「パルル……」

 劣情から注意をそらす絶好の話題に俺は飛びついた。

「陛下がパルルをここへ?」

「ぱるる? オウムか?」

「御意」

「その鳥に感謝するがよい。オウムが鳴いたおかげで、そなたの居場所がわかったのだ」


 思わず目を閉じた。

 あのままでいたら、どうなっていたかわからない。パルルが鳴いたおかげで、陛下の遣わした近衛将軍は、すぐに俺の居場所がわかったという。


 パルルは、ラルフが持たせてくれたオウムだ。

 どうしたって俺は、ラルフに守られている。亡命貴族の俺を匿い、アンゲル海軍の大佐の位を与え、離れている今もまた。

 彼が俺を保護しているという事実は、否定しようがない。


 それなのに俺は、シャルワーヌを愛している。強く彼と惹かれ合っている。

 転生した今も変わらずに。

 俺は、ラルフを利用しただけなのだろうか。

 彼とヤりたくてたまらない。彼でないとこの熱は静められない。ラルフではない。シャルワーヌだ。


 不意に皇帝が爆笑した。


「違う。そなたの居場所がすぐにわかったのは、 遠征軍の部屋割りを管理していたのが、近衛軍だったからだ。朕の遣わした近衛将軍は、だからすぐに、そなたの連れ込まれた部屋を割り出すことができた」

「……」


 再び劣情を忘れた。呆気にとられ、俺は皇帝の顔を見る。


「オウムがそなたを助けたと言った方が、話としてはおもしろかろう? オウムは、謁見の間に取り残されておった。鳥籠に布を被せられ、おとなしくしていたよ。気の毒だからそなたを保護した後で、朕がこの部屋へ運ばせ、籠から出した。心配せずともよい。ここは後宮の一番奥だ。どこへも飛んでいくことはできない」

「かたじけなく存じます」


小さな声で礼を述べた。重ね重ね、失態ばかり重ねている。


「よい。そのオウムは、ラルフ・リールの所有物なのだな? 彼と、話し方がそっくりだ」

「話し方?」

「何やら愛を語らっておったようだが。そなたが眠っている間」

「エドガルド。アイシテル。アイシテル! エドガルド!」


 まるで人間の言葉がわかったかのように、頭上でパルルが喚きたてた。

 ラルフそっくりの節回しで。

 胸が抉れるように痛む。

 かたりとかすかな音がした。サイドテーブルから、皇帝が何かを取り出した。


「このガラス細工も彼が?」


 親指と人差し指に摘ままれ、垂れ下げられたそれを見てぎょっとした。

 目玉の護符だ。

 慌てて胸に手をやる。もちろん、そこには何もない。


「将軍が踏み込んだ時、そなたは衣服を脱がされ、裸の胸に、このガラス細工だけをつけて横たわっていたそうだ。リール代将のお守りは役に立たなかったようだな」


 からかうような声色だった。しかし続く言葉に、はっとさせられた。


「タルキアは一神教の国だ。信仰が許されているのは、太陽神ラーマだけ。このような土着の呪術を信じることは固く禁じられている」

「もっ、申し訳ございません」


 タルキアにおいて、ラーマ神は絶対だ。そうでなくても、その国の宗教には敬意を払わねばならない。宮中にザイードの土着のお守りを持ちこむなんて、うっかりとはいえ、大変なミスを犯してしまったことになる。ましてや俺は、アンゲルの大使だ。

 忍び笑いが聞こえた。


「……どうかな。少しは気がまぎれたか?」

「は?」

「そなたと話していると時を忘れる。だが、既に小半時も経ったろう。薬は効いたようだな」


 言われてみれば、疼くような性の渇望は、すっかり消え失せていた。熱は引き、脈も穏やかになっている。


「皇帝陛下は、わたくしの気をそらせるために、このようなお話を?」


 不躾だとは思ったが、問わずにはいられない。

 とらえどころのない笑みを浮かべ、皇帝は答えようとしない。


 皇帝は、俺が眠りに落ちるまでそばにいるという。この状態でどうやって眠れというのかと思ったが、疲れ果てていたせいか、熱が引いたら、あっという間に眠りに落ちた。 



 明るい朝の光で目覚めると、皇帝の姿はなかった。体調はすっかり元に戻っている。

 ほっと安堵し、それから、ゆうべの自分の痴態を思い出し、途方に暮れた。

 あろうことか、タルキア皇帝の前に発情して横たわっていたとは。

 そういえば皇帝は、外交上の取引がどうとか言ってなかったか? あれは、本当に冗談なのだろうか。

 とにかく、謁見を願い出るに限る。


 俺は、自分の過去と、現在の気持ちに気づいてしまった。

 シャルワーヌを愛している。

 勇敢で不器用なあの男を。

 困難を一身に引き受け、黙々と戦うことしかできない、あの愚か者を。

 東の国境の洞窟で、俺に必死でしがみついていたあいつを、がむしゃらなその愛を、今生でも変わらず受け入れよう。


 違う。

 ジウ、俺にこの体を譲ってくれたウテナ王子の分も加え、できうる限りの愛を、俺は彼に返したい。


 だからどうしても、ラルフの気持ちに報いることはできない。

 ラルフはちっとも悪くないのに。それどころか、およそ人として能うる限りの誠意と情愛を差し出してくれているというのに。


 俺が悪いのだ。わかってる。俺がラルフに、叶わぬ夢を見せてしまったから……。

 到底、許してもらえるとは思わない。恨まれて当然だし、なるべく早く彼の前から消え去るべきだ。

 ただその前に、せめて彼から与えられた任務を全うしようと思った。



 服は、衣装棚の中に吊るされていた。寝間着を脱ぎ捨てながら、よもやこれを着せたのは皇帝じゃなかろうなと思い、自分で打ち消した。きっと従者がやってくれたのだろう。

 寝間着も、その下の下着に至るまで、複雑に絡み合ったつる草の模様が刺繍されていた。タルキア皇帝の紋章だ。

 それらをすべて脱ぎ捨て、自分のシャツに袖を通す。汗で湿気ていた筈のそれは、いつの間にか洗濯され、きちんと糊付けまでされていた。


 ボタンを嵌めようと俯いた時、ぐらりと眩暈が襲った。

 よろめいた体を、ちょうど部屋に入って来た誰かが支えた。


「起き上がるのはまだ無理であろう」

 皇帝だった。そのまま抱き寄せようとする。

「失礼しました」

 ゆっくりとその手から逃れる。片膝をつき、胸に手を当てた。


 ……ラルフに報いるのだ。

 きっと目を上げ奏上した。


「ですが、皇帝陛下。わたくしは、お返事を頂かねばなりません」

「返事?」


 怪訝そうに眉を寄せる。ラルフが大使を寄こした理由を、まるで忘れたような顔をしている。


「エ=アリュ講和条約を尊重して頂きたい。ユートパクス軍への攻撃は、何卒お控え下さいますよう」


 軍の実力者、キャプテン・アガに拒絶された請願だ。彼はユートパクス軍を捕虜にして辱め、皆殺しにしようとしている。タルキア軍がユートパクス残留軍を襲撃する……それは、エ=アリュ講和条約の仲介者、アンゲル海軍将校ラルフ・リールの顔を潰すことになる。彼の悲願、平和の架け橋という夢を叩き壊すことになる。


「ああ、その件なら了承した」

拍子抜けするくらいあっさりと皇帝は請け合った。

「出撃を取りやめさせるため、今朝早くアガが父親の元へ向かった」

「キャプテン・アガが?」

 彼の父親は、タルキアの大宰相だ。既に宰相軍は、イスケンデルに布陣している。

「彼を信じてよろしいのですか?」


 ユートパクスと和平を、という俺の言葉を、アガは鼻も引っかけなかった……。

 皇帝の顔に暗い翳が過った。


「あやつの部下達の、大使への冒涜の数々、決して許されることではない。だがアガ自身が直接、手を下したわけではない。あれを罰することはできぬ」

「そういうことではございません」


 俺のことなどどうでもいい。問題は、ユートパクス軍の安全なのだ。いや、ラルフの名誉だ。

 どういったらわかってもらえるだろうか。


「彼はユートパクス軍を捕虜にしたがっています。上ザイードを占領された恨みを晴らす為、残虐行為を加えたがっているのです!」

「アガはラルフ・リールをひどく嫌っておるからの。大使が襲われたのも、煎じ詰めれば、彼への憎しみゆえだ」


 ショッキングな言葉を皇帝が吐いた。思わず息を飲む俺に向かい、平然と続ける。


「だがそれは、アガだけではない。外務大臣のフェンデも、閣僚のターダも同じ意見だ。三人はアンゲルの海軍将校ラルフ・リールをひどく嫌っている」

「フェンデとターダは、リオン号で、我々と共に時を過ごした大使達ではありませんか!」


 彼らがユートパクスを叩きたがっていることは予想していたことではあった。だが、ラルフを嫌っている?


「なぜ、そんなに彼を嫌うのですか? あんなに他人を愛することができる人間を」


 ラルフは、一刻も早く無益な戦争を終わらせたいと奔走している。戦争の悲惨さをよく知っているからだ。

 彼は、困った人を放っておけない。

 外国から亡命してきた俺達を、自国アンゲルの海軍将校に取り立てるよう、尽力してくれた。彼が救ったのは、俺たちだけじゃない。多くの人々の亡命に力を貸し、たとえアンゲルからの命令がなくても自分の船に掬い上げている。


 彼はまた、戦地にあっては敵味方かまわず、怪我人の救出に尽力する。自分の利益は度外視し、それどころか私財を投入して捕虜を救ったことさえあるのを、俺は知っている。

 ラルフは大きな人類愛に包まれた男だ。これは、決して、余人に真似できるものではない。

 皇帝の回答は単純だった。


「あの男がユートパクスに味方するからだよ。ユートパクスの怪我人を救い、彼らを捕虜にすることを禁じたからだ」

「戦争の災禍は計り知れません! タルキア軍の犠牲も甚大でした。エイクレ要塞はほぼ壊滅し、兵士達が大勢犠牲になりました」


 そのうちの一人が、前世の俺であったわけだが。

 だが皇帝は首を横に振った。


「一度でもタルキアを害した者は、その報いを受けねばならぬのだ。ユートパクスは我が国から、豊かなザイードを奪った。タルキアの領土まで侵攻し、惨たらしい殺戮を行った」


 オーディン・マークスの遠征だ。

 行軍に連れて行く余裕がないという理由で、オーディンは、タルキア兵の捕虜を大量に殺戮した……。


「今度は、彼らが罰を受ける番だ。ユートパクスは、死を以て報いねばならぬ。それが、ラーマ神の教えだ。アガは……アガだけではない。わが軍は、復讐の血に飢えているのだ」


 オーディンは秘密裏に帰国した。彼を信じてソンブル大陸までについてきて、そして置き去りにされた軍が、今、その責めを負わされようとしている。


「……」

 俺は絶句した。


 オーディンの所業を思えば、タルキアの怒りももっともだ。タルキア軍がユートパクス兵を捕虜にするのは、拷問の果てに殺す為だ。薄々感じていたことが改めて肯定され、体が震えた。

 大使として俺は全く無力のまま、この交渉も決裂してしまうのだろうか。

 だが、最初に皇帝は、了承したと言わなかったか?


「大宰相グラント自身も参戦派だ。戦争に反対しているのは、ひとり、朕のみである」


 俺は、皇帝の直属部隊が、キャプテン・アガの部隊を監視していたことを思い出した。宿泊棟の部屋割りまで把握し、おかげで俺は、凌辱を加えられる前に救い出してもらえた。

 あの時の皇帝の口調が気になっていた。曖昧に言葉を濁し、まるで語りたくないことがあるかのようだった。


 大宰相。閣僚達。大宰相の息子で、軍の実力者。

 もしかしたら皇帝は、政府・軍部の中枢とうまくいっていないのかもしれない。

 俺の心を透かし見たかのように、皇帝は微笑んだ。


「案ずることはない。彼らにとって朕の命令は絶対だ。それが、タルキアというこの国の大きな矛盾だ」

「矛盾?」

思わず聞き咎める。皇帝は頷いた。

「どうだ、大使。そなたの気分さえよければ、一緒に外を歩いてみよう」








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