裏切り/青い眼玉
アンゲル本国からの至急便は、驚くべき通告を運んできた。
「国王陛下の御意向を伝える。
ユートパクス遠征軍の撤退は認めない。同軍はタルキア帝国軍の捕虜となり、ソンブル大陸に留まるものとする。
「どういうことだ、これは。ユートパクス軍はタルキア軍と講和を結んだのではなかったか? ラルフ、君の仲立ちで」
苛立たし気な声を上げたのは、ヴィレル大尉だ。ラルフの配下には、2隻のフリゲート艦しかない。ラルフのリオン号と、オシリス号で、ヴィレル大尉はオシリス号の艦長だ。古くからのラルフの友人で、ラルフ自身のたっての希望で、メドレオン海まで来てもらった。
余談だが、タルキア帝国からザイードまでの湾岸を2隻のフリゲート艦だけでカバーするのは、いくら何でも少なすぎる。だが、ラルフは上官の覚えがめでたくないので仕方のないことだと、部下達は諦めきっている。
「俺も当惑している。というかいっそ怒り心頭だ」
ラルフの声は震えていた。彼が怒りに我を忘れるなんて、珍しいことだ。指令書を握り締めたまま、彼はヴィレルに向き直った。
「ウィスタリア帝国とツアルーシ帝国、そしてタルキア帝国が同盟を結んだのは知っているか? もちろん、
「対ユートパクス同盟だな。オーディン・マークスがザイードに遠征に出掛けた隙に手を組んで、一気にユートパクスを叩こうという腹なのだろう」
「その通り。だが、オーディンの急な帰国で、同盟軍は苦戦している」
「そこまでは知らない。だが、想像に難くない」
苛立たし気にラルフは指先でテーブルを叩いた。
「突然ウアロジア大陸の戦場に表れたオーディンに、同盟軍はぼこぼこにされているらしい。動揺した同盟国からわが国に対し、ユートパクスの精鋭部隊を帰国させるとは何事か、という苦情が寄せられたそうだ。特にクルスの領土を取り返したいウィスタリア皇帝は、ユートパクス遠征軍はソンブル大陸に留めおくべしと、言い張っているという」
今現在、ここ、ソンブル大陸に遠征してきているユートパクス軍は、遠征前、対ウィスタリア戦で大勝利を収めた軍だ。オーディン・マークス麾下で、ウィスタリアからクルス半島の領地を取り上げた。
自分を勝利に導いてくれた軍を、オーディンはソンブル大陸に置き去りにしたわけだ。
「そんなこと言ったって、ユートパクス軍の名誉ある撤退が、ラルフ、君の任務だったのでは?」
ヴィレル大尉が憤っている。
「その通り。俺は直接、戦争大臣から命じられた」
「政府はそれを翻したってわけか?」
「事実、ユートパクス軍はタルキア軍に負けたわけではない。捕虜になるのはおかしい」
「うむ。ユートパクスは講和を申し込んだわけだからな。降伏したわけじゃない」
「考えてもみろ」
ラルフの声が裏返った。
「ただでさえ残虐なタルキア軍が、ユートパクス軍を捕虜にしたらどういうことになる? あいつら、オーディン軍に豊かなザイードを奪われた上、エイクレ要塞まで進軍されたのを恨みに思ってるんだ」
前世の俺が死んだ戦いだ。エイクレ要塞を最後まで守り抜いたのは、タルキアのシャルキュ太守、そして、ラルフのリオン号とヴィレルのオシリス号だ。タルキア・アンゲル連合軍は、オーディン・マークス率いるユートパクス軍相手に、大変な苦戦を強いられた。
「ユートパクス軍をタルキアの捕虜にすることを許したら、あいつら、さぞや惨たらしく
ヴィレルが肩をすぼませる。
レイプ。拷問の果ての斬首。切り取った首を槍の穂先に突き刺し、要塞の周りに突き立てる……タルキア軍の蛮行を、アンゲル軍はさんざん見てきた。
「しかも、非公式な情報によれば、タルキア軍はすでに、イスケンデル郊外に集結しているという」
ちら、とラルフは俺を見た。マーラのくれた情報だ。彼女はかつての主シャルワーヌに、並々ならぬ好意を抱いている……。
「そりゃ大変だ!」
素っ頓狂な声をヴィレルが挙げた。
「ユートパクス軍は、全滅させられるぞ」
ラルフが立ち上がった。
「なんにしろ、政府のこの決定は間違ってる。一度結んだ講和を撤回するなぞ、あってはならないことだ。俺は一度
「わかった。留守の間は、オシリスに任せろ」
力強くヴィレルが請け合う。
「フェリシン大佐と彼の副官は連れて行く」
再びラルフは俺を見る。力強く俺が頷き返すと、一瞬だけ、彼の目の力が和らいだ。
「さっきも言ったように、既にタルキア軍は集結しつつある。ティグル号は置いて行こう。俺の留守中は、ルグランに任せる。コルベット艦※を借りるぞ」
「了解。だが、君の留守中にタルキア軍が行動を起こしたらまずいことになるな。
今まで名誉ある撤退を主張し、ユートパクス軍を捕虜にすることを諌めていたアンゲル政府が、一変して、彼らをタルキアの捕虜にして良いと言っているのだ。タルキアが張り切ってユートパクス軍に攻め込むのは目に見えている。だがアンゲル海軍として、ヴィレルは彼らを止めることはできない。
「やつらは、ユートパクス軍が船に乗る瞬間を狙っている。だから、大急ぎでワイズ司令官に使者を出して、撤退を取りやめるよう、説得しよう」
指令書を机に叩きつけ、ラルフが言った。
ヴィレルがため息を吐く。
「それにしても、ひどい裏切りだな、タルキア軍は。我々に内緒で、すでに軍を集めているとは」
リオン号でのエ=アリュ会談の様子を、俺は思い出した。
そもそもタルキア側からの大使は、ユートパクスとの講和に反対なようだった。タルキア皇帝の命令で、仕方なく講和条約にサインしたという印象だ。もちろん、皇帝には、事前にラルフが根回ししていた。
「タルキア皇帝に、既に出兵しているタルキア軍の撤収を願い出たらどうかな」
俺が言うと、ラルフとヴィレルはびっくりしたようにこちらを見た。
「いつもながら、君がフェリシン大佐だということを忘れそうになってたよ。だが、やはり君は彼だ。ウテナの王子なんかじゃない」
感に堪えぬという風に、ヴィレルが首を振っている。
「そうだろうそうだろう」
なぜかラルフは得意げだ。
ヴィレルは肩を竦めた。
「フェリシン大佐は君の補佐官兼参謀だったからな。はっきり言って、フェリシン大佐のサポートがなければ、君の立場はかなり微妙だったぞ」
「微妙って?」
ラルフはきょとんとしている。
「たとえば、アップトック提督との関係さ」
「ああ……」
ラルフにも思い当たることがあった模様だ。だからと言って、動揺した様子はみじんもない。平然としている。
アップトック提督は、どうもラルフが嫌いらしいと、これはティグル号の乗組員なら、誰もが心配している。気にしてないのは、当のラルフだけだ。
思案深げにヴィレルが首を傾げた。
「タルキア皇帝に軍を引き上げるよう要請するのはいい考えだと思う。だが問題は、ラルフ、君以外にタルキア語が堪能なやつがいないということだ」
「俺が行こう」
「エドガルド!」
「君が!?」
ラルフとヴィレルが驚いたようにこちらを見ている。
「そうか。フェリシン大佐はタルキア語ができたものな」
「ラルフほど堪能ではないが」
「いや、なかなかのものだ。そうだ。皇帝の元には、大佐に行って貰おう。それでいいな、ラルフ」
「えっ! いや、それは……エドガルドは俺と一緒にアンゲルへ来るんじゃ……」
「仕方ないだろ。他にタルキア語ができるやつがいないんだから」
「でも……君も久しぶりで都会の風に吹かれてみたいだろ、エドガルド」
「別に」
俺が答えると、ラルフは困り切った表情になった。
「だって、彼がいないと、アップトック提督が俺に冷たく当たるから」
「提督は今、クルス半島の南端だ。アンゲル国内で彼に会うことはないよ」
すかさずヴィレルが応じる。
「母さんも久しぶりにエドガルドに会いたいだろうし」
「君の母上にはもう少し我慢してもらえ」
「アンゲルでもタルキア語が話せる人が必要かも……」
「必要ない。それにラルフ、君はタルキア語が話せるだろ」
「でも……」
「ラルフ」
呆れて俺は口を挟んだ。
「時間は限られている。君がアンゲル政府に抗議している間に、俺はタルキア皇帝の元へ軍を引き上げてくれるよう、交渉に行く。合理的に動かねば、ユートパクス軍は本当に、タルキア軍の捕虜になってしまうぞ。そうなれば、和平交渉を取り持った君の汚点になる」
「ラルフだけじゃない。エ=アリュは、アンゲル国が取り持った講和条約だ。それを簡単に翻すなんざ、アンゲル国、つまり陛下の信用を落とすことになる」
ヴィレルが正論を吐いた。
「だが、もし、タルキア皇帝が、エドガルドに横恋慕したら? 彼をかっさらって、自分のものにしたいと思ったら!」
言いながら、ラルフは身もだえている。
「アホか」
呆れたようにヴィレルが吐き捨てる。
「どこの国の王様が、同盟国の大使に手を出すかよ。今アンゲルに手を引かれたら、タルキアは困った立場になるのは目に見えているというのに」
「ヴィレル大尉の言う通りだ。それに俺を見くびって貰ったら困る」
俺もヴィレルに加勢する。
「そんなこと言ったって、今のエドガルドは見ての通り、ウテナの王子で、非力……」
「国と国の力関係のことを言ってんの!」
「そうだぞ。それに、タルキア皇帝は理知的で、優しい皇帝だというじゃないか」
音楽が好きで、自分でも譜面を書くという。エイクレ要塞のシャルキュ太守が話していた。
「だから心配なんだよ! 知性があって、しかも王様なんて、ひどいじゃないか。勝てる気が全くしない」
「別に勝たなくてもいいだろうよ」
と、ヴィレル。
悲鳴のような声でラルフは叫んだ。
「馬鹿を言うな! 皇帝にエドガルドを奪われてしまうかもしれないんだぞ!」
「いい加減俺を信じろ。前世から俺は君をあい、」
言いかけて、慌てて口を閉じた。案の定、ヴィレルがにやにや笑っている。
「俺に構わず、続けて」
「いや、大したことじゃないから」
「大したことじゃないのか!」
もはやラルフは泣きそうだ。
「続きを言ってやってくれ、フェリシン大佐。さもないとラルフは、君にくっついてタルキアまで行ってしまうぞ」
「それは困る」
ラルフには
俺はラルフに向き直った。席を立ち、向かいに座ったラルフの耳に口を近づけた。
慈悲深くもヴィレルはそっぽをむいている。
「君だけだ。俺の恋人は」
一瞬浮かんだ幸せそうな笑みが、すぐに不服そうな表情にとって変わった。
「さっき言いかけたろ。あい、なんとか?」
「言わせるのか、馬鹿野郎」
「しばらく会えないんだ。言ってくれよ。頼むから」
再び俺は、ラルフの耳に口を寄せる。
「君を愛している、ラルフ」
こほん。
咳払いがした。
「ところでラルフ。さっきから気になっているのだが……リオン号のあちこちにぶら下がっている、これは何だ?」
ヴィレルが見ているのは、青いガラス玉に描かれた白と紺色の同心円だ。外側が白で、その内側に紺の円が描かれている。
「まるで目玉みたいだが」
青い眼玉が、リオン号のあちこちに吊るされている。
「ああ、それ」
嬉しそうにラルフが言う。
「邪眼除けだよ」
「邪眼、除け?」
「邪悪なユートパクス人の執念深い怨念を追い払うのだ」
イスケンデルの露店で、ラルフが大量に買いつけた護符だ。ラクダに乗せられて、今朝、リオン号に到着した。
ヴィレルが眉を顰めた。
「随分具体的だな。誰かに妬まれている自覚でもあるのか?」
「大ありだね。何しろ俺は素晴らしい天使をこの手で射止めたのだから」
「それって……」
リオン号の乗組員全員に白い目で見られながら、今日一日かけて、ラルフは大量の目玉を、リオン号のあちこちに吊るして歩いた。
天井の目玉に向けていた視線を、ヴィレルがこちらに投げかけてくる。
恥ずかしくて死にそうだった。
「ああ、そうだ。追加で発注しておいたから、明日の朝には君の船にも届くぞ、ヴィレル」
「オシリス号には、遠慮しておくよ……」
「何を言うか。俺の留守中、エドガルドは君の船に乗ることもあるんだぞ」
ヴィレルが絶句した時だ。
「イスケンデル港より、ユートパクス艦が出航しました!」
甲板から報告が入った。
「よりによって今か?」
呻き声が、ラルフの口から漏れた。
「エ=アリュ講和条約に基づいて帰国すると通告してきています。通行証も持っていると」
「俺がサインしたやつだ!」
ラルフは頭を抱えた。
「貴方のサインだけでは不安だから、タルキア政府発行の通行証も貰ってあると、言ってますが……」
「……あいつだ。この嫌みな態度、あいつに間違いない」
ラルフは呻いた。
「あいつの噂なんか、するんじゃなかった」
「どうする、ラルフ? 政府からは、とりあえずソンブル大陸から出すなと言われてるんだよな?」
ヴィレルがそわそわしている。
「ぐぬぬ。あんなやつはさっさと追い払った方がいいのだが……だが、政府の命令とあらば仕方がない」
「拿捕しますか?」
「イスケンデル港へ追い返せ」
「了解!」
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※コルベット艦
フリゲート艦と同じ3本の帆を持つが、フリゲート艦より小型。
ちなみに、ラルフのリオン号と、ヴィレルのオシリス号はフリゲート艦です。
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