邪眼除け/ハーレムの少女
賑やかな一角に戻ってくると、ラルフは一軒の店の前で立ち止まった。
「なあ、エドガルド。このバングルはどうだ?」
覗き込んで問う。その手には、銀色の太めの腕輪が握られていた。
「いいんじゃないか」
そう返すと、俺の腕に嵌めようとするから驚いた。
「俺にか?」
「うん、まあ……」
バングルを嵌めた手首と顔を交互に眺め、ラルフは首を横に振った。
「冷たすぎる。君の目の色と合っていない」
「バングルなど、要らないぞ」
「そう言うなよ。こっちの翡翠はどうだ?」
「だから、要らないって」
本当に、俺は、装飾品を身に着けるのが嫌いなのだ。いつもそれが気になるし、壊してしまったら嫌な気分になる。
「バングルはいやか? なら、イヤーカフとか」
残念そうな店主にウィンクして、隣の露店へ移る。
「ほら! これ、かわいいぞ。カエルが耳たぶにしがみついてくる」
「カエルは嫌いだ!」
「なら、シンプルにメノウの輪っかは? これなら俺にも似合いそうだ」
「耳飾りをするのは君か?」
似合わないのではないかと思った。金髪碧眼の優しい顔立ちに、余計な色は加えたくない。
悪びれもせずラルフは頷いた。
「うん。エドガルドとおそろいでな」
「おそろい?」
「本当は指輪が欲しいんだ。でもそれは、アンゲルで一番の宝石屋で買うと決めているから」
「ラルフ……」
胸がいっぱいになった。指輪には、やはり特別な意味がある。
でも、指輪を買うには早すぎる。だってここはソンブル大陸で、ユートパクス軍はまだこの大陸に駐留している。俺達の仕事は終わっていない。
「ネックレスはどうだ? ザイードでは質の高い色石が採掘されるというぞ」
簾のように吊るされた大量のネックレスを掻き分け、ラルフが顔を出した。
「ネックレスはダメだ」
即座に断った。
「なぜ?」
上機嫌だったのが、怪訝そうに首を傾げる。
「預かり物を首から下げているんだ。それに傷がついたら困るから」
「預かり物?」
じっと見つめているから、俺は、首元をごそごそとさぐった。
「おい、エドガルド。人前でなんて格好を……」
「服を脱ぐわけじゃない」
シャルワーヌから預かった護符を取り出す。
「ほら、これ。遺跡から発掘された貴重な文化財らしい」
護符を取り出し、首に掛けたまま、ラルフに見せる。
「シャルワーヌから預かった」
「えっ!」
ラルフの顔に険が過った。
「帰国の途中で、もし、彼と一緒に海に沈んだら人類の大損失だろ?」
「シャルワーヌ将軍自身は、損失でも何でもないがな」
「護符の方だよ! 貴重な石だと言ったじゃないか」
わずかにラルフは愁眉を開いた。でもまだ、不機嫌だ。
「何も君が預かることはないだろう? ユートパクス軍が連れてきた市民学者が保管すればいいじゃないか」
「盗賊に狙われる危険があるんだ。預かった人の安全の為にも、うっかり市民に任せられないんだって」
「そりゃ確かに、君の身は、アンゲル海軍が責任をもって守ってるからな。……って、ユートパクスが発掘した出土品なんて、君には無関係だろ!」
「全くその通りだ。だから、ユートパクス軍の撤退が始まったら、ワイズ司令官に返すことになってる」
不意にラルフが俺を抱き寄せた。
「ちょ、ラルフ、人前で、」
慌てて突き放そうとする。繰り返すが、タルキア人やこの大陸の人達は、男性同士の関係に、厳しい目を持っている。
さっきの農家の人が俺を誘ったとラルフは言っていたが、恐らくそれは、過保護な彼の見間違いだろう。
「君は俺のものだ!」
ラルフが叫ぶ。結構大きな声だ。
「そうだよ。でも、人がたくさんいるだろ」
「構うものか。見せつけてやる!」
「ダメだったら!」
暴れる俺を、ラルフは強く抱きしめた。
こうなると非力なジウの体ではどうしようもない。気候がいいとは言っても、温度は祖国より高い。抵抗する体力は、すぐに失せてしまった。
頭頂部に、ラルフがすりすりと頬を摺り寄せてきた。ぎょっとして身構えたが、さすがにキスは仕掛けてこない。ほっとして、全身の力が抜けた。
胸に顔を押し当てられる。彼の心の思いが伝わってきそうな、がむしゃらな抱擁だった。
ぎゅむ、と、最後に両腕に強く力を込めてから、ラルフは俺を離した。
「もっとずっと君を抱いていたい。だが、どうも誰かに見られている気がする」
「そりゃそうだろうよ……」
人だかりこそできていなかったが、道路の両脇に並んだ店々の中から、こちらを窺う気配がする。
「二人を祝福してくれる外野の視線なら、大歓迎だ。俺はオープンな男だからな」
「どうかと思うよ、それ。開けっぴろげなだけじゃないか?」
「だが、違う。これは外野の視線じゃない。監視の眼差しだ」
「監視?」
「しかも悪意ある監視……邪眼というやつだ」
青い目が俺の胸元に注がれる。
「感じる。確かに感じるぞ! 邪眼の気配だ。しかもエドガルド、君の胸の辺りから」
「考え過ぎだって……」
「そのペンダントを外せ。海に沈めてやる」
「ダメだよ。貴重な文化財だから」
「なら、今すぐユートパクス軍へ返しに行こう!」
「えっ!
「構うものか。不吉なものは一刻も早く返却するに限る」
「デ……デートはどうするんだ?」
小さい声で尋ねた。上目遣いに彼を見上げてみる。
「完全オフ、プライベートな一日にするんだろう?」
「そうだった」
はっとしたようだった。彼は身もだえ始めた。
「しかし、明らかに感じるこの邪悪な眼差しを、いったい俺は、どうしたらいい?」
「アンゲル人のお方。邪眼除けのお守りはいかがですか?」
向かいの店の中から声がした。薄暗い店の中で、黒い
「何、邪眼除け?」
ラルフの目が輝いた。
「詳しい話を聞こう」
「ジウ。……ぷりんす」
ラルフに続いて店の中に入ろうとしていると、小さな声が呼んだ。細くて高い声だ。
イスケンデルの港町に知り合いはいない。そもそもこの大陸には、アンゲル海軍とシャルワーヌ師団の面々くらいしか、知っている人はいない。そしてアンゲル軍は海の上だし、ユートパクス軍は本国への撤退に備え、首都マワジへ集結中のはずだ。
振り返ると、ほっそりとした少女が立っていた。被っていたニカブ(目だけ覗かせた顔全体を覆う布)を彼女は跳ねのけた。
「あなた、ジウ王子よね。マーラよ。私のこと、覚えてる?」
「マーラ」
ありふれた名だ。聞いたことがあるような、ないような……。
「ほら、これ」
俺が戸惑っていると、彼女は淡い色のカシミヤを取り出した。すっかり薄汚れてしまっているが、間違いなく、俺があげたものだ。
シャルワーヌのハーレムにいた少女に。
「あの時の!」
わずかな期間に、少女はひどく大人びて見えた。タルキア語も達者になっている。
「あれから私、イスケンデルの商人に売られたの」
「えっ!」
ハーレムは女性たちの避難所なのではなかったか。少なくともシャルワーヌはそう言った。
「売られた、って……くそっ、シャルワーヌのやつ! それじゃ、奴隷扱いじゃないか」
「総督の悪口は言わないで!」
ぴしゃりとマーラが遮った。
「あ、それ……」
桎梏の瞳が、吸いつけられたように俺の胸元を見ている。白い上衣の上に、シャルワーヌから預かった赤い石が出たままになっていた。
「総督はやっぱりそれを貴方に渡したのね。そうだろうと思った」
「え?」
「学者の先生たちよ。彼らは総督に、一番好きな人に渡すようにと勧めていたから」
……一番好きな人?
「俺は、文化財を保護するよう頼まれただけだ!」
事実を告げた。マーラはひどく不満げだ。
「またそんなこと言って! 私がどんなにそれを欲しかったか、わかる? 私だけじゃない。ファムもササラも、それが欲しくてたまらなかったの」
なら、あげるよ。
そう言いかけて、危ういところで踏みとどまった。これを狙っている盗賊は多い。マーラの身を危険に晒すことはできない。
「私にくれたこのカシミヤにしても、総督からのプレゼントだったんですってね。プリンス、貴方への」
「あれはアソムが貰ったんだ!」
マーラはため息をついた。
「ずっと思っていたのだけれど、私達の総督に対する貴方の態度は、それはそれはひどいものだった。前はそうでもなかったのだけれど、重い病気をしてからというもの、まるで別人になったかのように、貴方は総督に冷たく当たるようになった」
「重い病気をしてから……?」
それは、オーディン・マークスが差し向けた毒薬を服用したからだ。その時点で、俺とジウは入れ替わった。
マーラはそれを知らない。にもかかわらず、的確に変化を見抜いていた。
「不思議なことに、シャルワーヌ総督は、冷淡な貴方の方を好んだのよ」
ちらりと店の中を覗き込んだ。
「あの人、アンゲルの軍人ね。前に上ザイードに来た。やっぱりあの男と一緒にいたのね。全く貴方って人は!」
いや、ラルフはずっと前からの恋人なんだけど。マーラに非難される筋合いはない。
「ねえ。ちょっと話をしたいのだけれど」
言われてためらった。俺がいなくなったら、ラルフが心配するだろう。
「大丈夫よ、あの人なら。夫の第三夫人が相手をしてくれるから」
目顔で、ラルフと話している黒いチャドル姿の女性を示す。かなり年配だ。
「第三夫人だって?」
驚いた。どう見たって、マーラの母親の年代だ。
「私は夫の七人目の妻。先に入った奥さんたちは、とてもよくしてくれるわ」
目顔でついて来いと促す。
店と店との間の細い路地を通ると、白く乾いた区画に出た。道端で子どもが遊び、建物の間には洗濯物が翻っている。華やかな表通りから一変して、生活感溢れた一画だ。
そのうちの一軒に少女は入っていく。少しためらい、俺も後に続いた。
薄暗い家の中は、外の暑さが嘘のようにひんやりしていた。
「なあ。シャルワーヌに売られたって、君、」
我慢できずに切り出したのだが、マーラは黙って部屋の奥へ入ってしまった。
すぐに、器を持って戻って来た。
「甘茶よ」
素朴な土器に入ったお茶を差し出す。口に含むと、ほんのりと甘く感じられた。
「シャルワーヌ総督は、私達を保護してくれただけ。決して手を出すことはなさらなかった」
リオン号でシャルワーヌが言ったことを、鵜呑みにしていたわけではない。心の中には疑いが残っていた。それが今、マーラの言葉できれいに払拭されたのを感じた。
……別にどうでもいいけど。シャルワーヌの性生活なんて。
「イスケンデルに嫁ぎたいと言ったのは私なの。本当はシャルワーヌ総督が行かれる
「なっ、そんなことで君は、自分の結婚相手を選んだというのか?」
「少しでも総督のそばにいたかったから!」
叫ぶようにマーラは吐き出した。そうすることで何かが発散できたのか、少し落ち着いた様子で続けた。
「上ザイードでの仕事が終わって、シャルワーヌ総督はマワジへ行かなければならなくなったの。代わりにムメール族の人が来たんだわ」
イサク・ベルのことだ。シャルワーヌは、上ザイードの統治権を彼に譲ったと言っていた。
「総督のハーレムは、この人に引き継がれたの。ファムもササラも彼のハーレムに移された。でも、私は嫌だった。ムメール族のハーレムなんて! そしたら、総督が適当な人を探してくれたのよ」
「適当な? 人? だって!?」
呆れて繰り返したが、マーラは落ち着き払ったものだった。
「優しくてお金があって穏やかな人。前からいた奥さんたちも親切で、うわなりいじめのないおうち」
「うわなりいじめ?」
「新しく来た妻をいじめることよ」
あっさりと言ってのけた。まだ幼く感じられる彼女の口から出た「新しく来た妻」という言葉は、ひどく無残に聞こえた。
「そして、一番大事なことは、奥さんに暴力をふるわない人」
「………………」
「それが、今のおうちよ。すごく居心地がいいの。シャルワーヌ総督は、いい人を見つけてくれたわ」
それが、彼女の結婚なのだ。マーラの様子には、愛とか恋とか、そういう幸せは皆無だった。ただ、生活の安定を喜ぶ気持ちだけがあった。
厳しい環境のザイードで、それを打算と言えるだろうか。
複雑な心境だった。
「ファムもササラも、シャルワーヌ総督が大好きだったわ。もちろん私もよ。総督は、貴方のことが一番好きだったけど」
だからどうしろと? あの男は前世の俺を強姦したんだぞ?
「今でも私たちは、総督が好き。だからお願い。彼に伝えて」
俄かにマーラの瞳が真剣になった。俺の耳に口を寄せ、早口で囁く。
「イスケンデル港近くのあちこちに、タルキア軍が集まり始めたわ。彼らは、国へ戻るユートパクス軍が、船に乗る瞬間を狙っている」
「なんだって!?」
「夫がタルキア軍に納品しているの。この情報は確かだわ」
俺の耳から口を離したマーラは、真剣な目をしていた。
◇
ラルフを置き去りにした店の前まで戻ってくると、彼は憮然として店先に立っていた。
「どこへ行ってたんだ、エドガルド。俺は、この店にある全ての邪眼除けを買ったぞ。それなのに、意気揚々と店から出てきたら、君はいないし」
恐らくマーラの先輩(?)である第三夫人の口車に乗せられての爆買いだろう。彼女はちょっとした小遣い稼ぎができたわけだ。
「だから、見ろ。先にオウムを買っちゃったじゃないか。君と一緒に選ぼうと思ってたのに」
見ると、彼は大きな鳥籠をぶら下げていた。中には、色鮮やかな南国の鳥が、仏頂面をして天井からぶら下がっていた。
……なぜにオウム?
「それどころじゃないんだ! タルキア軍がユートパクス軍を襲おうとしている!」
俺は、マーラから聞いたことを早口で伝えた。
「いや、だって両国は、エ=アリュ条約で休戦中のはずだぞ」
「あっ、ここにいた! ラルフ代将! エドガルド大佐!」
大声で呼ぶ声が聞こえた。バザールの大通りを、はた迷惑にも馬に乗ったまま駆けてくる者がいる。
副官のラビックだった。
「大変です!
「またか」
ラルフがうんざりした顔になった。
「いつだって至急、至急って……。こっちは休暇中だ。大事な可愛いエドガルドとデートなんだよ!」
「ラルフ、呆けるのもいい加減にしろ!」
俺は一喝した。
「さあ、リオン号に戻るぞ」
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