大型犬の舌と赤い石
「シャルワーヌ。俺も、君に謝罪しなければならないことがある」
シャルワーヌの懺悔は、少なくとも転生した俺には全く覚えのないことだ。
転生後に限って言えば、謝らなければならないのは、むしろこちらのほうだと思う。ジウの体で目覚めた瞬間から、俺はシャルワーヌの命を狙った。オーディン・マークスの忠実な将校を、排除しようと計画した。
一度として成功した試しはないが。
……品位ある侵略者。公正な配分者。
薄々、感じてはいた。地元ザイードの人達の、
最初に気づかせてくれたのは、オットル族キャラバン隊のエスムだ。彼は、タルキアで忌み嫌われるオーディンと、賄賂さえ受け取らない高潔なシャルワーヌの対比を、鮮やかに描き出してくれた。
上ザイードの統治はうまくいっていた。オアシスの村での農業指導は成功し、村は大きな収益を生むようになっていた。
リオン号へ来る前、シャルワーヌは、その全てを、イサク・ベルに譲り渡したという。イサクは、ユートパクス軍をしつこく付け狙っていたムメール族の
シャルワーヌはまた、タルキア大使との会談で、ウテナの保全を図ろうと尽力してくれた。ジウの国の安全を守ろうと、真っ先に。
……。
俺は顔を上げた。傷のある浅黒い顔を睨みつけた。
「君を殺そうと狙っていた。ジウに転生してからずっとだ。もちろん、個人的な怨恨じゃない。君が、オーディン・マークスの有能な部下だからだ」
「知ってる。というか、ついさっき、知った」
「さっき?」
「リール代将と話していて、唐突に。いや、本当は随分前から知ってたよ。……それくらいの見栄は張らせてくれ」
何を言っているのかわからない。だが、少なくとも彼からは、怒りは感じられなかった。もちろん、悲しみもない。ただ穏やかで落ち着いた静けさだけが伝わってくる。
「アソムが自害した時に使った短剣は……」
言いかけた俺をシャルワーヌが遮る。
「イサク・ベルからの贈り物だろう? 俺を殺せと、彼が君に命じたのだ」
「命じられたわけじゃない。提案されただけだ。彼は俺の計画を見抜き、その弱点を補ってくれた」
「君の方から、イサクのやつに相談したわけじゃないのだな?」
不意に、大型犬のような眼差しを注がれた。上ザイードにいた頃、しばしばじゃれついてきた時の、あの目だ。
「相談なんかするものか。俺は、さらわれたんだぞ」
「そうだ! そうだよな!」
もはや飛びついてきかねない勢いだった。目に見えない舌が伸びてきて、顔中を嘗め回す気配を確かに感じた。
俺は両手で自分の顔を覆った。
「どうしてだろうな。俺にシャルワーヌ、君は殺せなかった。剣舞の時も、イサクのくれた短剣でも」
「剣舞の時も、俺を殺すつもりだったの?」
「そうだ」
顔を上げ、正直に答える。見返す目が、優しく微笑んだ。
「ダメだよ、エドガルド。君はとても可愛かった」
「かっ!」
忘れていた動悸が一気に早まる。
「君はとても可憐だった。俺に付きつけた剣先を震わせて、身も世もあらぬ風情で。あれは、人を殺す剣じゃない」
見抜かれてた。
俺の無能を。優柔不断を。弱い体を。
不思議と、屈辱は感じなかった。ため息が漏れただけだ。
「君を殺そうと決意しても、俺はいつもためらい、最後の一歩が踏み出せなかった。そうしているうちに、アソムが……」
喉が詰まった。
忠実なウテナの侍従。彼は俺を死なせない為に、自ら命を絶ってしまった。
「あの剣は、アソムが俺から、とり、取り上げて……隠し……自分が……はっ、腹に、」
「エドガルド。もう話さなくていい」
大きな腕が伸びてきた。飾りボタンの取れた袖が、熱く腫れた目元にそっと押し当てられた。粗い生地に、目の縁に盛り上がっていた塊が吸い取られていく。
それで俺は、自分が泣いていることを悟った。
今度は左の目から、涙が流れ落ちている。静かに、際限もなく。
不覚だった。
よりによってシャルワーヌの前で。
俺の涙に気がついても、シャルワーヌは驚かなかった。再び長い腕が伸びてきて、静かに抱き寄せられた。
俺は、逆らわなかった。されるがままになっていた。その方が楽だったから。
もう何も考えたくなかった。考えるのに疲れてしまった。
大きな胸に封じ込められ、唸るほど安堵した。体中の力が抜けていく。
そこへ、濡れた温かい何かが伸びてきて、目の下にそっと触れた。
……大型犬が涙を嘗めている。
「俺がいなかったら、ジウは死ぬことはなかったのか。俺が最初から転生を打ち明けていれば、アソムは自死しないで済んだのでは?」
気がつくと、口にしていた。心の奥に封じ込めていた後悔。言っても仕方のないことだけど、仕方がないでは片づけられない、辛い出来事。
ユートパクスの王に忠誠を尽くす為に、俺は転生を受け容れた。俺の第二の生は、あくまで、王に捧げられるべきものだ。
その陰で、ジウ王子がひっそりと死に、今またアソムが自死を遂げた。
二人は、犠牲になったのではないか。俺が王へ誓った忠誠の。
「これは、ジウの涙だ。正確にはジウの体の。アソムの死を、俺は悲しまなかった。済まないと思っていても、ジウの死を利用した。そうまでして俺は、自分の主義を貫こうとしている」
涙を嘗め取り、舌が離れた。両腕に力が込められた。優しい力と温かさに喘ぎ、頑張って、俺は続けた。
「同じ地方、同じ時間軸に転生し、俺は改めて王への忠誠を誓った。古くて新しい、そして決して譲ることのできない強い忠誠を。そのことを後悔するつもりはない」
「それでこそエドガルドだ。俺の愛した男だ」
無条件で肯定してくれる優しい声。でも、素直に受け容れてはいけない。
「馬鹿な。俺は君も殺そうとしたんだぞ」
「大丈夫だ。君に俺は殺せないから」
「は?」
俺はシャルワーヌの胸を強く押した。その体から離れようともがいた。
「俺に君が殺せない? だと? どんな自信だ、それは」
今、アンゲル国はユートパクス軍の撤退を援助している。タルキアとの間に入り、休戦を実現させた。
しかしそれは、暫定的な休戦に過ぎない。両国は依然として、交戦状態にある。
「近い将来、確実に、アンゲルはユートパクスと衝突する。かつてない激しい戦闘が行われるだろう。君は俺の敵だ、シャルワーヌ。次に会う時は、お互い、殺し合う時だ」
……それでも君は、祖国に帰るのか。オーディン・マークスの元へと戻っていくつもりか。
「何も変わっていないのだな、君は」
離れかけた顔を、再び自分の胸に押し付け、シャルワーヌがつぶやいた。
「最後の朝に言ったろ。君は俺を殺さないって」
「最後の、朝?」
「移動命令が出て、君を手放さなければならなくなった朝だ。君は覚えていないようだから、もう一度言おう。どんなことがあろうと、君は俺を殺さない。なぜなら君は、そういう男だからだ」
逞しい胸郭を通し、その声はくぐもって聞こえる。我知らず、拗ねた声で俺は尋ねた。
「どういう男だよ?」
「優しくて情の深い。その分、人から傷つけられやすいんだ。だから君にこれを……」
上着の隠しから、ごそごそと何かを取り出した。腰から下は俺に絡みつけるようにして、上体をのけぞらせるようにする。
何かを首に掛けられた。鎖を通した赤い石だ。
「それは、上ザイードの遺跡で見つけた。いにしえの王の護符だったのではないかと、学者たちは言っている」
「そんなものを……」
「大事に持ってろ。俺の代わりだと思って」
「護符など不要だ」
「そう言うと思った。あのな、エドガルド。その石の赤は……」
シャルワーヌの声が揺らいだ。
「俺の髪の色だ」
「君の髪の? だって君の髪は黒いじゃないか」
濃い色の髪は、今日も後ろで無造作に束ねられていた。シャルワーヌの生命力を表すような、丈夫で艶やかな髪だ。
「よく見てごらん」
言われるままに顔を近づける。
「あ……」
「一本一歩は赤いだろ? 赤は集まると黒く見えるんだ。俺は赤毛なんだよ」
含み笑いが聞こえた。
「その護符をつけている限り、ラルフは君に何もできない。俺が見張っているからな。つまり、学者の言うことを信じるならば、だ」
妙にあやふやになる。
「どういうことだ?」
「俺にもよくわからん。その石が嵌っていた石板に、そのようなことが書いてあったらしい。学者たちも、全部解読できたわけじゃないんだ」
俺はじっくり考えた。見張っている、とシャルワーヌは言った。
「つまり俺は、君に監視されているというわけか?」
「違うよ」
慌てたようにシャルワーヌは両手を顔の前で振った。
「離れているのにどうやって監視するというんだ?」
「なるほど。それもそうだな」
納得した。それで、シャルワーヌがぺろりと赤い舌を出したのを……後から考えれば絶対、彼は舌を出していたに違いない……見逃してしまった。
「君は、エドガルド。いつだってその石を外せる。都合が悪いときは、首から外せばいい。体を洗う時とか、着替える時とか」
妙にその顔が赤く見えた。
「正直に言ったぞ。俺は変質者じゃないからな。だが、肌身離さず身に着けていたいのなら、それは君の自由だ」
「自由だというのなら、護符など、俺は要らない」
「俺からの贈り物を身に着けていれば、いくら破廉恥なアンゲル人でも、君に手を出せまい。つまりそれは、お守りなんだ」
「何度も言わせるな。俺にお守りは不要だ」
「そんなこと、言うなよ」
いやにしつこい。
「それはとても貴重な石だ。さっきも言ったように、上ザイードの遺跡で見つけたんだ。遺跡というのは、王の墓だ。つまりそれは、王の護符なのだ。欲しがる奴らはいっぱいいる。ムメール族やタルキア人の盗賊とか、アンゲル人とか。だが俺は、もうすぐ帰国しなくちゃならない。艦隊を組んで帰るならともかく、嵐とか海賊とか、海には危険がうじゃうじゃだ。貴重な石を持ち帰って、もし万が一、海賊にでも奪われたら? 大切な文化財が失われてしまう」
「お守りを持ってたんなら、大丈夫なんじゃないか?」
「う……」
シャルワーヌは詰まった。
「だが俺は、君に持っていて欲しい」
しつこく繰り返す。
「要らない」
何かを身に着けているのはわずらわしくて嫌いだ。
「君ならその石を守れるだろう? 悪い盗賊やアンゲル人から」
いやにアンゲル人にこだわる。
「俺が石を守るのか?」
「そうだ。君が石を守るのだ。石が君を守るのではなく」
「貴重な物なのか?」
「ああ、とても。人類の宝だ」
「わかった。なら、暫くの間預かって、ユートパクス軍の撤退が終わった時点で、ワイズ総司令官に渡すよ」
「いや、ずっと持っていてくれていいんだよ……」
「そういうわけにはいかない。人類の宝だからな。きっちり守って、然るべきところに保管しないと」
ユートパクス軍は学者を大勢連れているから、考古学に詳しい学者が、きっとうまく処理してくれるだろう。彼らの身に危険が及ばない為にも、暫くの間、俺が保管しておくのもありかもしれない。
「俺の髪の色だ。お願いだから肌身離さず身に着けていてくれ」
しつこくシャルワーヌが繰り返す。
「肌身離さず?」
思わず問いかける。
「いや、なくしたら大変だから」
「なくさないよ。人類の宝なんだろう? 大切に扱おう」
「…………うん」
ふと、肩を寄せ合って赤い石を覗き込んでいる自分達に気がついた。弾かれたように彼から離れた。
「君は帰るのだな、シャルワーヌ」
「ああ」
「オーディン・マークスの元へ?」
「そうだ」
首に掛けられた鎖を、思わずぎゅっと握りしめた。オーディン・マークスの手先となって戦うのなら、彼は、永遠に俺の敵だ。
けれど、わかっている。シャルワーヌが王党派としての俺を認めるのなら、俺は、革命軍の将校としての彼を理解してやらねばならない。
ただ、気持ちが……。
オーディン・マークスの傘下に下るなどと。あの、悪魔のような男の。
シャルワーヌは彼に、身も心も譲り渡してしまっている。俺への愛を囁いた一方で、オーディンへ捧げた強い思いだけはどうしようもなく変わっていない。
シャルワーヌの瞳の色が濃くなった。
「なぜ君は、そんなに彼を憎むのだ? 彼は君の、最初の男だったというのに」
思わず息を飲んだ。
「君が言ったのだ。相手は、士官学校の同窓生だと。そこから先は、
どうやら、最初に俺のことを話題に乗せたのは、シャルワーヌらしい。士官学校という言葉が呼び水になったのだろう、オーディンには、俺の正体がすぐにわかった。
「オーディンには、どこまで俺のことを?」
「俺の恋人だと話した。王党派には、最愛の恋人がいると」
なんて危険なことを!
元貴族だというだけで充分危険なのに(元貴族はオーディンも同じだったが)、その上、自分が関係を持った人間が亡命貴族軍の中にいたと告白するなんて! 敵との密通を疑われても仕方のない状況だ。
「それで、オーディンは何て?」
声が掠れた。
「笑ってた」
つまり、その場にいたのはオーディン・マークスとシャルワーヌ二人きりだったということになる。他に誰かいれば、ただではすむまい。
いったい、どこでどういうシチュエーションで、シャルワーヌは俺のことを話したのか。
……そんな風に思う自分がいやだった。それは、私的な空間だったはずだ。お互いに寛いで、過去を語れる空間……。
「オーディンとの……」
喉から、低い声が漏れた。自分でも聞いたことのない低く掠れた声だった。声というより音だ。
「オーディンとの寝物語に、俺の話題を出したというのか?」
違うと言ってほしかった。妬いているのかと笑って欲しかった。
けれどシャルワーヌは何も言わなかった。ただ悲し気に、俺を一瞥しただけだ。
「これからだって、君は、オーディンと寝るのだな?」
「わかってほしい。俺には、栄光が必要だ。彼の特別でいる必要がある」
「わかるか!」
衝動的に、貰ったばかりの鎖を引き千切ろうとした。けれど頑丈なそれは、首の後ろに食い込んだだけだった。
「お前を軽蔑する、シャルワーヌ・ユベール!」
「構わん。愛してるよ、エドガルド」
控えめなノックの音がした。
「お時間です、シャルワーヌ将軍。船がイスケンデルの港に到着します」
ルグランの声がする。
「わかった」
シャルワーヌが立ち上がる気配がした。
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