愛と猥談
「ユートパクスへ帰るんだな?」
ワイズ司令官の命令とかで、
オーディン・マークスの元へ。
「君は、帰さないと言った。なら、君のそばにおいてくれるか?」
そう言われて驚いた。シャルワーヌがユートパクス軍を裏切り、アンゲル海軍へ入隊希望? まさか。ありえない。貴族のくせに王に従わず、革命軍に残った男だ。いったい何をふざけているのか。
「俺の側に? そんなこと、できるわけないだろう? ここはアンゲル軍の戦艦だぞ?」
「君が俺と一緒に来ればいい。マワジでも上ザイードのあの邸宅でも。そしたら俺も、先に帰国したりしない。軍と一緒に撤退する。なあ、エドガルド。俺達と一緒に、ユートパクスへ帰ろう」
……ユートパクスへ帰る。
それは、なんと甘美な響きだったことだろう。亡命してアンゲルに逃れても、俺の祖国は、依然として、懐かしいユートパクスだ。山深く、緑麗しい、あの……。
すぐに俺は頭を振った。自分はいったい、何を考えているのか。
俺は亡命貴族だ。未だ国王陛下は亡命の途上にあられるというのに、なぜ自分だけ、おめおめと祖国に帰れようか。
それに……。
「ラルフはどうするんだ?」
「彼はアンゲル人だ。アンゲルの海軍将校は、アンゲル艦から離れられない」
「ラルフを置き去りにしろと? そんなこと、できるわけない!」
怒りが、胸の奥から突き上げてきた。いったい何の権利があって、この男は、俺とラルフを引き裂こうとするのか。
シャルワーヌの顔が歪んだ。さっきから、彼はひどく緊張しているようだった。いつもより真剣そうに見えたのはその為だ。
「俺は……俺は、君に謝罪しなければならないことがある。だから、リール代将に時間を貰って、ここへ来た」
「謝罪?」
心当たりがまるでない。
「君を愛している。前回来た時、俺はそう言った」
……「俺が愛したのは、愛しているのはお前ひとりだ、エドガルド。前世の君からずっと、お前を、お前だけを、愛し続けてきた」
「あっ、あれはっ!」
再び、脈拍が激しく上昇する。浅い呼吸を繰り返し、消え入りそうな声しか出ない。
「あれは、君の冗談だろう?」
だから謝罪するんだ。嘘を吐いたから。そう思い、胸が痛んだ。
「冗談なものか!」
強く否定された。
ほっと体中の緊張が抜けた。シャルワーヌの愛は、冗談じゃなかったんだ。
ん?
なぜほっと……?
しかし、下らぬ御託を受け容れている場合ではない。俺にはラルフがいる。友人であり、アンゲル海軍に入れてくれた恩人でもあり、何より前世からの恋人であるラルフが。
「君は、ラルフと俺を引き裂こうとしたのだろう? アンゲル海軍から亡命貴族軍への応援を断ち切ろうと。今だって、俺とラルフを離れ離れにさせようとしている。アンゲル軍が亡命貴族軍へ援助できないようにするためだ」
「リール代将の元から君をひっさらいたいのは否定しないが、アンゲル軍や亡命貴族軍のことは考え過ぎだよ」
「でも、」
「エドガルド!」
どこか悲し気な気配を漂わせてシャルワーヌが割って入った。思わず俺は口をつぐんだ。
シャルワーヌも黙り込んでいる。シャルワーヌの口から唐突に出てきた「愛」だけが、二人の間に中途半端に、けれど侮りがたい存在感で置き去りにされていた。
「本当に、前世の記憶がないのだな? つまり、エドガルドとして、俺に関する記憶が」
「全然。全く」
「即答だな」
シャルワーヌはため息をついた。
「君が俺のことを忘れてしまった原因には、心当たりがある」
「心当たり?」
どきっとした。やはり、彼との間に、何かあったのか。
「許してくれ、エドガルド。俺はてっきり……」
言ったきり、言い澱んでいる。俯いた顔を覗くと、傷のある頬が、わずかに赤らんで見えた。
「てっきり、なんだ」
焦れて問い返す。多少、詰問調になっていたかもしれない。
「てっきり、その、君も……」
言いかけては止め、止めては口を開き、愚図愚図している。いらっとした。
「はっきり言え、シャルワーヌ!」
はっとシャルワーヌが俺を見つめた。
「エドガルド……」
「あ、ごめん。つい……」
慌てて謝ったが、シャルワーヌはなぜか、懐かしそうな素振りをしていた。
「今、一瞬、昔の君が帰って来たのかと思った」
「前にもそんなことを言ったな。前回、タルキア大使との会談でリオン号に来ていた時」
「覚えていてくれたのか!?」
濡れたような大きな瞳を向けられ、俺は顔を背けた。
あの時彼は、ぶっきらぼうでつっけんどんなところが、俺らしいと言った。
本当にそんな風に俺は、彼に接していたのか。だとしたら、シャルワーヌとの仲は、相当、親しいということになる。だって、俺は、親しくない人間には礼を尽くすことにしている。
「そんなことはどうでもいい。話をそらすな。続きを言え」
何かに呑み込まれそうになる。だが今ここで、過去に呑まれるわけにはいかない。たとえどのようなことがシャルワーヌの口から語られようと、踏ん張らねば。
シャルワーヌの表情が変わった。甘くなりかけた雰囲気は霧消し、急に頬骨が尖って見えた。
「俺のは愛だった。森羅万象にかけて誓える。そして俺は、君のも愛だと思った。だから、いやがらなかったのだと」
……愛?
唐突過ぎる。話の意味が掴めない。
「もっと具体的に話せ」
シャルワーヌはため息をついた。
「思い出してくれ。あの国境の洞窟での日々を。確かに、たった一ヶ月だ。でも、あれほど濃密な一ヶ月を、その前もその後も、俺は経験したことがない」
やっぱりあの時だ。
祖国に密入国しようとして、国境で革命軍に捕まった時……。気がついたら俺は、越境していて、懐には、シャルワーヌの署名入りの通行証を携えていた。
その前の記憶が、俺には一切ない。転生のショックで忘れてしまったのだろうか。部分的に忘却するなんてことがあるのだろうか?
「あの時、いったい何があったんだ?」
「ああ……」
シャルワーヌの目線が彷徨った。あちらを見、こちらを見して、留まることを知らない。最終的にそれは、俺の上に据えられた。
「1ヶ月の間、毎日だ。夜だけじゃない。昼間だって時間ができればいつでも。本当に、いつだって、一時だって、無駄にはしなかった。僅かな時の隙間を盗むようにして、俺は君の元へ通った。時間が惜しかった。会えばすぐにお互い服を脱ぎ、いや、服を脱ぐ暇さえ惜しくて、だって顔を見た瞬間、もう、勃ってしまって……俺だけじゃない。君もだ、エドガルド。俺達は、飽きずにやり続けた。一日に何度でも抱き合い、嘗め回し、そして……」
「ちょ、ちょっと待て。いったい何の話をしてるんだ?」
あまりに直截な表現に、俺は慌てた。シャルワーヌは心外そうな顔つきになった。
「だって、あんなによかったじゃないか。何度も言うけど、俺だけじゃない。君の体だって喜んでいた。君のそこは、いつだって俺を迎え入れてくれた。狭くて熱くて、そして強く締め付けてくる……」
「だから何の話を!?」
途方に暮れた。
シャルワーヌとの間に何かあったとは感じていたが、まさかこんな爆弾が出てくるとは思ってもみなかった。
しかも俺は、何も覚えていないときている。反論もできない。
シャルワーヌの顔が曇った。
「そりゃ、弱った体に無理をさせたのは悪かったと思っている。本当にすまなかった。でも、わかってくれ。止められなかったんだ。俺は君を深く深く愛していた。いや、今でも愛している。あの時は、行為の数だけ、愛を証明できると思っていたんだ。君は決して、俺を拒絶しなかった。そのことが俺を勇気づけてくれた。君はいつだって優しくしっとりと俺を迎え入れてくれた。熱く燃えるように俺を締め付け、ひくひくと」
「もういい!」
俺は叫んだ。
「実のある話ができないのなら、今すぐ、出ていけ!」
大変なショックだった。前世の体とはいえ、自分の情事を暴き立てられ、しかも、一切の覚えがないわけだから。
もしかしたら、強姦されたのではなかろうかと疑った。どうやら当時、俺の体は最悪の状態だったらしい。亡命軍の国境越えとあらば、食べる物もろくになかったはずだから、それは頷ける。
けれど、前世の俺が、強姦を許しただろうか。武器を持っていたなら相打ちになろうと確実に相手を仕留めただろうし、武器がなかったのなら、舌を噛み切ってでも自ら命を絶ったはずだ。革命軍の将校にやられるくらいなら。
違う。強姦はありえない。
そうすると、シャルワーヌの言うように合意の上?
まさか、愛?
シャルワーヌの目が燃えるように輝いた。
「具体的に話せと、君が言ったんじゃないか!」
「限度がある! 俺は猥談をしろとは言ってない!」
「猥談ではない。愛についての物語だ!」
「……」
東の国境で起きた出来事を、シャルワーヌは話し始めた。思った通り、祖国に密入国しようとしていた俺を、彼の軍が捕まえたらしい。軍の規定に則って銃殺寸前だった俺を、彼が救い出した。そして洞窟に匿い……。
「戦闘の合間、訓練の合間に、俺は洞窟に通った。もちろん、君を抱く為だ。正直、俺には全然足りなかった。エドガルド、君が足りない。もっともっと一緒にいたかった。抱き合いたかった。君の中にねじ込んで、温かい君を感じて居たかった。熱く濡れる君を……。君は、初めてだったんだろう? つまりその、後ろは」
「おい!」
「俺は君を愛していた。あれだけの回数をこなしたんだ。君だって、」
「黙れ!」
「君だって陶酔してた。すごくくねくねと体を捩らせて、声だって……」
「黙れ! シャルワーヌ!」
耐えきれず、俺は喚いた。こいつはいったい、何が言いたいんだ?
こんこん。
ドアがノックされた。間髪入れず、ルグランが顔を出す。
「何かあったか?」
「何も。昔話をしていただけだ」
すましてシャルワーヌが答える。
問いかけるように、ルグランが俺を見る。
「ああ、大丈夫だ。大声を出してすまなかった、ルグラン」
シャルワーヌとは、もう少し話した方がいいように思われた。よそでとんでもないデマを広げられたらかなわない。
俺とシャルワーヌが距離を開けて向かい合って座っているのを確認し、ルグランは頷いた。重い扉がそっと閉められる。
「そう、俺は思っていた」
ルグランが見えなくなると、割り込まれた時間などなかったかのように、シャルワーヌが再開する。
「俺の愛は決して一方通行ではなく、双方向的なものだろうと。つまり、君も俺を愛してくれていたのだと。俺には、自信があった。それだけの愛を、二人は交わしたのだから」
「君の猥談はもういい」
ばっさりと切って捨ててやったた。甘い顔をしているとつけあがると思ったのだ。
シャルワーヌは、驚いたような顔になった。
「猥談?」
「それ以外の何物でもない」
「……そう、それだ」
限りなく暗い声だった。
「君は忘れてしまった。行為だけでなく、俺という存在そのものを、すっぱりと。それはつまり……」
じっと俺をみつめる。その目が、みるみる曇っていく。明らかな斬鬼の表情だ。
「俺だって考えた。その考えは、最初から俺の頭にあった。君と関係を持っていた当時でさえ、その可能性に怯えていた。けれど俺は、いつもそれを打ち消していた。だって俺の下で君は、あんまりにも可愛く……」
「もういいと言ったろ。止めろ!」
「すまない」
大きな男が、しゅんと項垂れた。
「俺にとっては愛だった。いや、愛だ。けれど、君にとっては……」
黙って俺は続きを待った。
間が空いた。苦し気に喘ぎ、彼は続けた。
「君にとっては、無理矢理だったのかもしれない」
「……」
俺は答えなかった。答えようがない。
「だから忘れてしまったのだ。俺の存在ごと」
俯き、しょげかえるその姿は、むしろ哀れを誘った。この男は、俺を無理矢理犯し続けたのだと(しかも1ヶ月もの間、毎日? だと?)、思い当たったらしい。
そして、深い後悔の底に沈んでいる。そのせいで、俺は彼のことを忘れてしまったのだと。
彼は、謝罪しなければならぬと思い詰めた。だから、アンゲル船の俺の所までやってきた。
「……………」
「君に愛はなかったのか、エドガルド。だとしたら、俺は君に、なんてひどいことをしてしまったのか!」
「……………………」
知ったことか!
俺には何の記憶もない。
彼に抱かれたことも、彼を愛したことも。いや、それは、単なる凌辱であったのか。
わからない。
「許してくれ、エドガルド」
許すも何も、覚えていないのだから話にならない。けれど、今それを言うのは、とんでもなく残酷な気がした。「好き」の反対は「嫌い」ではない。「忘却」だ。
そして、彼の愛を受け止めたにせよ、凌辱されただけにせよ、俺の体は死んでしまった。今のこの体は、全く別の体だ。
「怒ってないよ、シャルワーヌ」
俯いた耳元で囁いた。
がばっと、勢いよく頭が跳ね上がった。危うく口にぶつかるところだった。
「本当に?」
「ああ。怒ってはいない」
……忘れているだけだ。
「なら、最初から関係をやり直そう。今度は乱暴はしない。最初から優しくする」
「……」
「もちろん、前だって乱暴したつもりはなかった。けれど、その、ちょっとばかり焦ってしまったことはあったかもしれない。どうしても君が欲しかった。だから」
「君は、本当に
あまりの立ち直りの早さに、呆れるというより、笑ってしまった。
「よく言われる」
つられてシャルワーヌが笑った。嬉しそうに、子どものように屈託なく。
いや、褒めてないから。
俺は笑みを引っ込めた。
「だが、それはできない。知ってるだろ? 俺にはラルフがいる」
「彼はまだ、君に指一本触れてはいないはずだ。俺達は紳士同盟を結んだからな。だったら俺にも、チャンスはある」
「その、紳士同盟なんだが」
俺は首を傾げた。
「なぜラルフは、君とそんなものを結んだんだ?」
「知らない。俺が紳士だからだろう」
あっさりとシャルワーヌは答えた。この件に関し、彼はしごく当然のことと受け止めていた。つまり自分とラルフは、対等の立場で俺を競う権利があると考えているようだ。
もし今の彼の話が本当なら、そして俺の方にも彼に対する気持ちがあったのなら、それはその通りなんだが……。
前世の俺とシャルワーヌの間で何が起きたかなんてこと、当然、ラルフは知らないはずだ。だって俺が話すわけがない。
……それとも、話したのだろうか? 全てを語った上で、彼と恋に落ちたと?
ならなぜラルフは、今まで知らん顔をしているのだ?
彼は一体、何を考えているのだろう。
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