オーディン・マークスの脱出
◇までは、ユートパクス軍総司令官オーディン・マークス目線です
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オーディン・マークスのタルキア遠征は失敗に終わった。
途中までは快進撃を続けた。だが、エイクレ要塞包囲戦で、壊滅的なダメージを受けた。麾下の軍に疫病が流行り出したのだ。要塞に立て籠ったタルキア軍の長い抵抗が、疫病流行に拍車をかけた。最終的に要塞は破壊したが、オーディン軍の兵は1/3ほどに減ってしまった。
撤退せざるをえない理由は、それだけではなかった。
情報が齎されたのだ。ウィスタリア帝国軍が復活し、祖国ユートパクスに宣戦布告をしてきたと。ウィスタリアは、ソンブル大陸に渡る前に、オーディン自らが叩きのめしたはずなのに。
さらに北の大国ツアルーシも参戦し、オーディンが今、遠征をかけ、旗色の悪い(オーディンは決して負けを認めなかった)タルキア帝国までもが、ウィスタリアとの同盟に参加したという。同盟には、アンゲル王国ももちろん、加盟している。
祖国ユートパクスは、敗北寸前だった。かつてオーディンが獲得した領土の殆どを、奪還されてしまった。
加えて、ユートパクス国内では、王党派の反乱が激化していた。
国外ではウィスタリア帝国初め、同盟国との戦争。国内では激しい内乱。
革命政府は、滅亡の危機に存していた。
……チャンスだ。
それは、オーディン・マークスの野心だった。
ユートパクスの属州の、貴族とは名ばかりの、貧乏で子だくさんな一家から出てきた軍人の。
王の士官学校に入り、富裕な貴族の中で官費で学び、軽蔑や嫉妬、無視、ありとあらゆる不条理の果てに、王の将校となることを拒否し、革命政府に身を投じた将軍の。
……一刻も早く、ユートパクスへ帰らねば。
今こそ、革命の果実をこの手に納める時だ。
オーディンはためらわなかった。即座に泥沼のエイクレ要塞から撤退(ではなく退却)を開始した。疫病に罹った兵士らは病院に置き去りにした。そして、彼らに配るようにと、医師に毒薬を渡した。
だが医師は、激しく抵抗した。オーディンには不思議だった。慈悲のつもりだったのだ。タルキア軍に捕まり、拷問の末に犯されて殺されるより、ひと思いに薬で死んだ方がどれほど楽か!
医師の倫理観を考慮している時間などなかった。毒を用いようが用いまいが、疫病に罹った兵士達はいずれ死ぬ。それは時間の問題だった。大切なことは、病をこれ以上、軍に広げないことだ。疫病に罹った兵士らをばっさりと切り捨て、オーディンは首都マワジへ帰還した。
撤退の途中、ダミヤンで追撃軍を破った。この勝利は、是非とも欲しかったものだ。オーディン・マークスともあろう者、遠征最後の戦いが撤退戦であるわけにはいかないのだ。
ダミヤンでの勝利が、オーディンの背中を押した。首都へ戻る途上で彼は、フリゲート艦の用意を命じた。
側近達は顔を見合わせ、第三国の商船で帰還することを勧めた。メドレオン海を封鎖しているアンゲル海軍を恐れたのだ。
……貧乏な外国の商船で帰れと? この俺に?
断固としてオーディンは、これを退けた。とんでもない話だ。
オーディン・マークスの力は、民衆の支持の上に成り立っている。そしてそれは、戦争の勝利によって齎されるある種の熱狂だということを、彼は正確に理解していた。
政治を動かすのは実力ではない。民衆の狂乱だ。
一緒に連れて行くメンバーは、自分に本当に誠意を尽くす部下だけを慎重に選び抜いた。
ちらりと、
……あれはダメだ。あれに政府を裏切ることなどできはしない。
品位ある侵略者。公正な配分者。
現地の民からそう評されているシャルワーヌが、自分に与し、軍の力を以て政権を奪取する手助けをするなど、到底、考えられなかった。
オーディンは怖かった。自分に絶対の忠誠を誓った部下が、自分を諫めることが。自分を叱りつけ、進もうとする道に立ち塞がることが。
もっと簡単に言えば、愛する男が、自分から離れていくことが怖かったのだ。
だから、連れて行く将校の中に、彼は含めなかった。シャルワーヌこそが、一番強い忠誠を、何の混じりけもない純粋な愛情を、彼に捧げていたのだが。
ワイズ将軍※は、未だダミヤンの戦場にいた。彼は、あらゆる上官とぶつかる将軍で、税の取り立てをめぐり、オーディンともひと悶着あった。頑固な、だが、有能な将軍だ。
オーディンは手紙を書き、この年長の、自分を良く思っていない将軍に、遠征軍の総指揮権を譲り渡した。直接会って辞令を下す気など毛頭なかった。そんなことをしたら、あの偏屈な男は、怒り心頭、勝手に船を調達して帰国してしまうに決まっている。
タルキア遠征のごたごたと、ソンブル大陸での全てをワイズ将軍に丸投げし、腹心の部下だけを引き連れ、夜陰に紛れ、オーディンは首都マワジを後にした。
◇
イサク・ベルから貰った剣は、箱に納めてあった。袋の底にしまったきり、船旅の間、一度も出していない。
箱の蓋をずらし、俺は、冷たい柄に手を触れた。幽かに、違和感があった。が、突き詰めて考える余裕はない。
オーディン・マークスは、列の中ほどにいた。臆病な彼らしく、周りを随身に囲ませている。民間人に化けた彼は、暗殺者を警戒していた。
オーディンと部下との会話が始まり、列に乱れが生じた。俺の潜んでいる下草の前まで来た時、オーディンと俺との間には、誰もいなかった。
宝石で飾られた豪華な鞘を払い、俺はオーディンの前へ躍り出た。
「オーディン・マークス!」
両手で握った剣を胸の前に低く溜め、渾身の力で彼に突っ込んだ。頭から被っていた上着がはらりと落ちたが、気にしなかった。こいつを殺すことができれば、後のことはどうでもいい。
「なにやつ!」
叫んで、オーディンが手で払う。わずかにその手に、剣の先が触れた。
触れた。剣の刃が。
そう思ったのも束の間、俺は、オーディンの部下に囲まれてしまった。
「おのれ、賊が!」
あっさりと、あまりにあっさりと、俺の手から剣が叩き落とされた。
「将軍、血が!」
副官の一人が叫ぶ。
「かすり傷だ。大事ない」
血の滲む右手の側面を、オーディンは舌で舐めた。
……死なない!?
剣には猛毒が塗ってあるはずだ。ほんの少しの傷でも、命を奪う猛毒が。
呆然として俺は、剣に目をやった。地面に落ちたそれは、イサク・ベルがくれたものとは、似ても似つかぬものだった。ただ、刃渡りと柄の形状が似ているだけだ。
……すり替えられた?
いつ? どこで!
考えている余裕などなかった。あっという間に俺は捕えられ、乱暴に引き倒されてしまった。
「水色の髪……ウテナ人か」
オーディンの声がした。
部下の一人が、髪を掴んで顔を上げさせた。虹彩に飛び込む眩しい光に、俺は顔を歪めた。
部下の差し出す松明の下、オーディンが顔を覗き込む。
「ジウ王子!」
彼は、俺を認めた。ひどく驚いている。
「ウテナの王子だな。お前ひとりか? 仲間がいるのか!」
倒れた背中を、別の部下が蹴りつける。肺を後ろから抉られ、息が詰まった。
「止めろ」
オーディンが制した。彼はショックを受けているようだった。
「俺の命を狙う者がいようとは。革命の寵児、民衆の味方たるこの俺の」
思わず俺は鼻で笑った。
革命の寵児?
民衆の味方。
いったいどの口がそれを言うか。
「こいつ……」
俺の口元に浮かんだ皮肉な笑みに、部下の将校らは激怒した。再び、背中と太ももの辺りを強く蹴られ、意識を失いそうになった。
「誰の命令で俺を襲った?」
部下の暴行の合間に、オーディンが問う。激しい蹴りと殴打に、俺は、答えることができない。
「将軍。ウテナの王子は、上ザイード総督に預けてありました。よもや……」
殴打に熱くなった耳から、部下の声が入ってきた。上ザイード総督……オーディンは残虐な男だ。彼を巻き込むわけにはいかない。彼は、オーディンに絶対の忠誠を誓っている。覚えのない疑いをかけられても、反逆などすまい。唯々諾々と刑に服するだけだろう。
力いっぱい、俺は、首を横に振った。
「誰にも命じられてなんかいない。自分の意志だ」
部下達は激昂した。
「世間知らずのウテナの王子が、上ザイードからここまで一人で来れるわけがない!」
「そんなことはない。船に乗ったら、簡単だった」
部下を押しのけ、オーディンが俺を見下ろした。まるで、あってはならぬものを見るような目をしている。
「ジウ王子。君は死んでいなかったのか」
不意に、予想外のことをオーディンが口走った。
「え?」
「君は死んだと思っていたよ。ペリエルクからそう、報告を受けていた」
「ペリエルク?」
その名を聞いた途端、頭が割れるように痛み始めた。
「ぐ……」
両手で頭を抱え、のたうった。頭がガクンと落ち、掴まれていた髪が、まとめて引き抜けた。その痛みさえも無痛に思われるほどに、頭痛は激しかった。
俺を拘束していた部下たちが、一斉に後ずさった。衆人観座の中、激しい頭痛に俺は地面の上を這いずり、転げ回った。
「様子がおかしい。マークス将軍、こいつをどうします?」
うろたえた声が問う。
冷たい声が答えた。
「殺してもいいが、ソンブル大陸でウテナ人は珍しい。死体が見つかったら、後々騒ぎになる。仕方がない。連れて行こう」
金色の髪の大柄な男が頷くのが見えた。次の瞬間、鳩尾の辺りに衝撃を感じた。
意識を手放す寸前、俺が見たのは、誰かを探すように、辺りを見回しているオーディン・マークスの姿だった。
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※ワイズ将軍
Ⅰ章「砲兵隊長」でちらりと出てきました。
4年前ユートパクスの軍港シュエルで、エドガルド・フェリシンは、王党派の死刑囚達を脱走させ、アンゲル海軍将校ラルフ・リールに託しました。エドガルドと別れた後、ラルフらはワイズに会っています。
ワイズはユートパクス軍の将軍で、シャルワーヌの顔見知りでもあります。
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