月下の舞


 頭から被されていた布が外される。砂漠の乾いた空気が肺に流れ込んできた。

 そこは、戸外だった。広々とした場所で、下は柔らかな草地だった。


 「手荒な真似をしてすまなかった。怪我をしていないだろうか」

そっと俺を草の上に下ろし、シャルワーヌは尋ねた。


「あなたこそ。病気だって聞きました。こんな風に外へ出て、大丈夫なんですか?」


 気になって仕方のないことを、俺は一気に口にした。自分が今、どういう状況にいるか、考えることさえしなかった。

 暗い中、シャルワーヌが眉を吊り上げたのがわかった。


「病気? 誰が?」

「あなたが」

「誰がそんなことを!?」

「ロットル参謀長です」

「ロットルが? 彼にはさっき会ったばかりだが」


 さっぱり話が通じない。俺はじれてきた。もし、病気を隠しているなら、それは、彼が重病だということではないか? 軍に不安を拡げない為に、司令官が病を隠すのはよくあることだ。

 もはや俺は、彼の重病を信じて疑わなかった。


 ……死んじゃったらどうしよう。

 一刻も早く安静にさせて、医者を呼ばなくては。


「正直にお話しなさい。あなたは重い病気になったから、今夜の宴に顔を出さなかったのでしょう?」

シャルワーヌは怪訝な顔をした。

「違うぞ。俺は、アンゲルが嫌いなんだ。あの代将は特に嫌いだ。彼は俺から大切な人を奪った」

「大切な人?」

聞き捨てならないと思った。

「いやまあ、多分。推測だ。実際はどうか知らない」


 有耶無耶に、シャルワーヌは言葉を濁した。

 彼の話は曖昧でわかりにくかった。

 ……ラルフがシャルワーヌから奪った大切な人って、誰だろう? 全く心当たりがない。ずっと昔の話だろうか。


 シャルワーヌは随分怒っているようだ。


「とにかく、歓迎会なんてとんでもない話だ。だがまあ、兵士達には気晴らしが必要だからな。無礼講とはいえ、司令官の俺がまざったら、やつらも気づまりだろ?」

「……」


気遣いができているのかいないのか、さっぱりわからない。


「俺だって、ラルフ・リールの顔なんぞ、見たくもない。だから、ひとっ走りルビン河まで行って、水浴してきたんだ。おかげですっきりした」

「水浴?」


 声が強張った。

 彼は健康だ。間違いない。

 初めて、俺は、自分の置かれている状況に思い至った。

 暗い夜、誰もいない広い戸外に、シャルワーヌ将軍と二人きり……。


「おい、どうした? 震えてるぞ」


 もはや足で立っているのが耐えられないくらい、俺の体は震えていた。

 いつもの発作だ。

 くそっ、こんな時に!


「寒いのか? 濡れた浴布でくるんだりしたのがいけなかったんだろうか。でも、仕方がなかったんだ。水浴を終えて帰ってきたら、ちょうど剣舞が始まるところだった。素晴らしかったよ、君の舞は。けれど、言ったろ? 人前で肌を晒してはダメだ。君の父上に申し開きが立たない」


 最後の一言は、ひどく偽善臭かった。理由はわからないけれども、彼の声に混じるトーンが、嘘だと告げていた。

 激しい震えに倒れそうになった俺を、シャルワーヌ将軍が抱き止めようとした。


「ひ、一人で立てます」

 力いっぱい、俺は、彼の胸の辺りを突き飛ばした。

「うん、ならいいんだ」

もっともらしく、シャルワーヌは頷いた。


 俺は辺りを見回した。丸い広場の背後には、簡易倉庫のようなものが並んでいる。

「ここはどこです?」

 何はともあれ、逃げ道を確保しなければならない。


「武器庫の前だ」

「武器庫?」

「ふだん俺は、大砲の下で寝るんだ。見張りの兵士の負担が減るし、なにより、そこが一番、落ち着く」

「……」


あまりのことに、俺は脱力した。それが師団長のすることか!


「なあ。お願いがあるんだが」

シャルワーヌが、妙に上目遣いになっている。

「さっきは遠くにいて良く見えなかったんだ。それにあれは、リール代将コモドール・リールの為だったし。だから、今度は俺の、俺だけの為に」

「……何の話です?」

「君の剣舞だよ。どうか今、ここで舞ってみせてくれないか」


 どうやって断ろう。

 瞬時に思ったのはそれだった。

 シャルワーヌの為に舞うだって?

 冗談じゃない!


「今日、凄く悲しいことがあった。あの不吉なアンゲル代将が悪い知らせを運んできたのだ。俺には到底受け容れらない……」


 言葉を途切らせた。見上げると、何ともいえない不可解な表情を浮かべた目が、俺を見下ろしていた。


「ジウ王子。確か君が意識を失ったのは、花の月の2日だったな」

「はい」

「そうか……」


 シャルワーヌは深く考え込んでしまった。


「そういうわけで、俺は慰めを必要としている。君の剣舞が見たい」

 唐突に厚かましい願いを繰り返す。

 力いっぱい、むっとした。

「剣を落としてきてしまいました」

「ここにある」


 すかさずシャルワーヌは、剣を手渡してきた。

 呆れたことに、俺の落とした剣を拾い上げてきたものとみえる。その上、ご丁寧に鞘まで回収してきている。

 ……最初からその気で?


「で、でも、謡がないと……」

「君の声はとてもきれいだ。君がうたえばいい」

「……」

「な。お願いだ。完璧じゃなくてもいい。形だけで。俺にも見せておくれ。君の舞を」


 俺は、渡された剣に目をやった。持ち慣れた重みが、手になじむ。

 ……この剣は、まがい物じゃない。真剣だ。

 再び、チャンスが巡ってきたことを悟った。ここで引っ込むわけにはいかない。


「さっきの舞の続きでいいですか? あの舞は二部構成で、後半部には肩脱ぎがありませんから」

「えっ!? ないのか?」


この場にそぐわない、素っ頓狂な声だった。俺は頷いた。


「考えてみれば、人前で肌を晒すのは失礼ですよね。ユートパクスの礼儀を知らずに申し訳ないことをしました」

素直に俺は謝罪した。


 思えば、ムメール族のイサク・ベルのテントで、服を切り裂かれた俺を見つけた時のシャルワーヌの怒りは凄まじかった。間違いなくユートパクスでは、肌は、隠しておくべきものなのだ。

 さきほどの宴席の場には、サリやベリル将軍など、顔見知りの将校らもいた。基本的な礼儀を知らなくて、本当に恥ずかしいことをした。


「……」

 なぜか、シャルワーヌが、がっくりと肩を落とした。


「お座り下さい、シャルワーヌ将軍」


 何か言いたそうにしていたシャルワーヌは、しかし何も言わず、その場に腰を下ろした。足を組み、あたかもそこが、自分の定位置であるかのようにくつろいだ姿勢を取る。

 確かにここは、彼の寝室の前だ。背後の倉庫には、彼に添い寝をしてくれる大砲達が収納されている。

 彼から少し離れた所まで退き、俺は待機の形を取った。ずっしりと重い剣を、柄ごと腰に差す。


 ……これは、神が与え給うた絶好の機会。今度こそ、失敗は許されない。


 いつかの苦い後悔が甦った。膝の上に頭を乗せて眠ってしまったシャルワーヌを、俺は、殺せなかった。殺すことさえ、思いつかなかった。

 それに気がついた時の、絶望感。

 ジウ王子に転移したことで、自分が腑抜けになってしまったのではないかという恐怖を、ずっと俺は抱えてきた。


 ……いいや。俺は、ダメになどなっていない。


 乱れた襟ぐりをきちんと直す。静かな緊張を身にまといつつ、背筋を伸ばした。低い音域で、調べを口ずさみ始めた。

 俺に渋い声は出せない。曲とは言えぬ、むしろ振動ほどの幽かな旋律を響かせる。シャルワーヌに聞こえなくても構わない。むしろ、聞こえない方がいい。これは、姫が王を殺す話だ。


 静かに鞘から剣を抜く。まだ、本気ではない。力を入れず、右に左に振る。姫のためらいだ。今宵彼女は、愛する王を殺しに行く。

 頭上には、細い銀色の月が掛かっていた。抜いたばかりの白い刃が、ぎらりと光る。


 片手だけで、滑らかに剣を動かす。勢いのままに柄を逆手に持ち、自身がくるりと回る。同時に剣を重く垂らし、背中に隠す。

 次いで足を滑らせ、前に進みながら、両手で大きく剣を回す。白い剣の軌跡は、散り行く花びら。大輪の花が惜しげもなく散っていく。

 俯き、右手で握った柄の端を、左手で押す。剣をぐいと押し出し、次の瞬間、低い姿勢で屈みこむ。


 曲調が変わる。ためらいはここまでだ。

 俺は観客の前へ進んだ。たった一人の観客の前へ。

 右手で剣をくるくると回す。自身も大きな円を描いて走る。左右を剣で薙ぎ払い、再び元の位置に戻る。

 剣を宙に投げ、落ちてきたそれを掴んで低く屈む。

 そして、両手でしっかりと柄を握った真剣を、シャルワーヌの胸元へ。


 シャルワーヌは動かなかった。ただ静かに俺を見返しただけだ。


 ……剣を押すのだ。

 ……前へ!


 そうすれば、確実に仕留められる。


 低い位置から、澄んだ眼差しが、一片の曇りもなく、俺を見返していた。ほんの少しの恐れも怯えも感じられない。ただ、限りなく透徹した思いが、そこにはあった。


 呼吸の乱れを感じた。息が苦しい。激しい回転でほつれた髪が、額に落ちた。


 ……剣を。

 ……早く!


 この男は、革命軍の将校だ。貴族でありながら、王への忠誠を破った裏切り者、神を否定し、信心深い民を苦しめる悪魔の手先……。

 だが、体が動かない。意志はある。殺さなければならないという、強い意志が。


 それなのに、細く強靭な糸で縛り上げられたように、体が固まっている。あるいは強烈な冷気を吹きつけられ、凍り付いたかのように。

 剣先を突き付けられたまま、シャルワーヌは、まっすぐに俺を見つめていた。夜目にも濃い色のその瞳が、ほんの少しも揺るがず、澄んだ光を放っている。


 俺にとって、永遠とも思える時間が流れた。

 最初に動いたのは、シャルワーヌだった。幽かに身じろぎ、彼は問うた。


「君は、誰だ?」


 なぜそんな風に感じたのだろう。

 突き付けた剣から、温かい波動が伝わってきた。包み込むような優しさ。

 突き付けた剣の先が、ふるふる震えた。手に馴染んでいた筈の剣が、たまらなく重く感じられる。重ねた両てのひらに、じっとりと汗がにじんだ。

 ついに俺は、ぽろりと剣を落とした。


 ……仕損じた。


 涙が、両目から溢れた。

 背後で呼ばれたが、振り返りもせず、俺はその場から逃げ出した。








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