報復
※残酷な描写があります
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火傷と咬傷、小さな擦り傷以外、傷は負っていない。それなのに、意識が遠くなっていく。シャルワーヌ将軍の腕に抱かれて。彼の上着で覆われて。
ただひたすら、心地よかった。なぜだろう。わからない。
ただ、大きな安心感に包まれていた。素朴で優しい匂いにくるまれて運ばれながら、俺は、今までにない不思議な安らぎの中にいた。
不意に彼は立ち止まった。心地よい振動が止んで、俺はうっとりしたまま、目を開けた。
一気に覚醒した。目の前にあったものはそれほど衝撃的だった。
急拵えの集落の入口に、何本も槍が突き立てられていた。空に向けられた穂先には……干からびた首が刺さっていた。それが、いくつもいくつも。
悲鳴を上げなかったのは、エドガルド・フェリシンだった頃の自分を取り戻していたからだ。シャルワーヌの腕から身を伸ばし、俺はしげしげと、首を検分した。
一番近くに刺さっていた顔には、見覚えがあった。あのリーダー格の男だ。一番乗りで俺を犯そうとしていた、あの……。
「けっ。むごいことをしやがる」
吐き捨てたのは、後ろにいたベリル将軍だ。
「同じムメール族のようだが、仲間割れだな」
「いや、見せしめだろう」
胸郭を通って、低い声がつぶやく。
「見せしめ? 何の?」
「青いターバン……。その奥の奴は、前歯が欠けている」
シャルワーヌは、俺よりずっと落ち着いていた。ひとつずつ、首の特徴を確認していく。
「村の住人が言っていた特徴に合致する。こいつら、ジウ王子を攫ったやつらだ」
「でも……、じゃ、なんで殺されて?」
不審そうにベリル将軍が問う。
……「そうか。痛いか」
……「だが、あいつらは痛いなんてもんじゃなかろうよ」
輪姦されようとしていた俺をイサク・ベルのテントへと連れていった男の言葉が、脳裏に蘇る。あいつらというのは、今、目の前で生首を晒している男達だ。その瞬間は、痛いなどという生易しいものではなかったろう。
あの時、剣を持った一群の男たちとすれ違った。彼らは処刑に向かう途中だったのだ。そのことに気づき、初めて全身に戦慄が走った。
……「部下たちが俺の戦利品に勝手に手を出すのは法度だ」
イサク・ベルの言葉が蘇る。戦利品というのは、俺のことだ。彼らがしたことは、ムメール軍の規律に反することだった。だから、殺した……。
ユートパクスの二人の将軍に、伝えなければならないと思った。
「イサク・ベルが命じたのです。彼らは、イサクの……命令に逆らったから」
我知らず、声が震えた
「君を襲おうとしたのはこいつらか?」
冷たい声が問うた。ひどく怒っている気配がする。何を言っても火に油を注ぐだけのような気がして、無言で俺は頷いた。
「君は、イサクには何もされていないのだな」
凍えるような声で、シャルワーヌが蒸し返す。さっき彼は、俺の言うことを信じると言ったばかりなのに。
再び俺は無言で肯った。
見知った人が見知った人々を殺す。
たとえ合意でなくとも、両者とも、その肉体に俺は触れた。彼らの行為がどうであれ、温かい生物の、血の通った人間の体だった。
ひどく気分が悪い。吐きそうだ。
「命令を無視して君を襲おうとしたこいつらを、イサクが殺させた。そして君は、彼には何もされていない。それで間違いないか?」
しつこく繰り返す。怖いくらいの真剣さだ。顔を伏せたまま、俺は頷いた。
「シャルワーヌ将軍」
見かねて、ベリル将軍が口を出した。
「もう少し配慮すべきだ。刺激が強すぎるんだよ、深窓の王子には。彼は我々とは違う。貴方は、全く配慮が足りていない」
シャルワーヌの体から、怒りが消えた。
「見るな」
短く命じる声がして、不意に俺の目の前が暗くなった。顔を彼の胸に押し付けられたのだ。
全身の血が逆流したような気がした。
……恐怖だ。
彼に抱かれて運ばれて、安らぎだの安心感だの、俺は動転していたに違いない。これは、紛れもない恐怖の感情だ。
「どうしよう、ベリル将軍。ジウ王子の震えが止まらない。彼は病気に違いない」
途方に暮れた声がした。背後で短い舌打ちが聞こえた。
「一気に距離を縮めようとするからだ。忘れたか、司令官殿。彼はわが軍の捕虜だ。我々は、彼の国を侵略したのだよ」
ベリル将軍の言う通りだと、俺は思った。シャルワーヌは、憎まれて当然の男だ。
辺りの空気をつんざいて、長く鋭い声が響き渡った。続いて不吉な調べの、地を這うような声。恨むような
「呪詛だ」
シャルワーヌが呟く。
キャンプの女たちの声だった。たった一発の砲撃で、テントの大半が吹っ飛んでしまっていた。剥き出しになった住居から女たちがこちらを睨み据え、口々に呪いの言葉を唱えている。
砂漠を渡る風に吹かれて、槍が震えた。てっぺんに突き刺された首が、ゆらゆらと揺れている。
「とにかく、一刻も早く館へ帰ろう」
吐き捨てるように言って、彼は足を速めた。
キャンプの外れには、大砲を乗せた馬車が一台と馬が二頭、繋がれていた。待機していた砲兵らに撤収を命じ、二人の将軍は、馬に向かった。
当然、という風に、シャルワーヌは自分の馬に俺を乗せようとする。
俺の体の震えが、一層激しくなった。自分でも制御できない。
「将軍、」
後ろからベリル将軍が声を掛けてきた。
「彼は俺が預かろう」
「君が?」
シャルワーヌが言った。不機嫌な声だった。
「そんなに震えていたら、馬から落ちてしまうぞ。もしも蛮族どもが追いかけてきたら、逃げ切れない」
俺を抱きしめるシャルワーヌの力が、強くなった。
「いや、やつらは追いかけては来ないさ。イサク・ベルは、自分の部下の失態を悟った。こいつらがここで首を晒しているのが、何よりの証拠だ。イサク・ベルは馬鹿ではない。ウテナ王子が我々の庇護下に戻った以上、彼を追うような真似はしないだろう」
「その自信はどこから来るんだ」
呆れたようにベリルが言った。
「俺には、君はただ、彼を放したくないだけのように見えるぞ」
俺を馬に押し上げようとしてた将軍の手が、一瞬、止まった。
「彼は俺の捕虜だ、ベリル将軍。君のではない」
「へえ。君が自分の権威を振りかざすのを、始めて見たよ」
呆れたように首を振りながら、ベリル将軍は後方に繋がれていた馬に飛び乗った。
◇
二頭の馬を先頭に、大砲を積んだ馬車を従え、一行は砂山を上っていく。沈みかけた太陽に照らされ、長い影が砂の上を這っていた。
実は俺には、この時の記憶がない。疲労と、そしてジウ王子から受け継いだシャルワーヌへの恐怖のせいで、気を失っていたらしい。
◇
「ジウ王子!」
金切り声で叫ぶ声に、はっと我に返った。アソムだ。
「おお、ジウ王子! よくぞ御無事で……」
忠実な侍従は涙ぐんでいる。
先に馬を降りたシャルワーヌ将軍が、俺を抱き下ろそうとしたから、即座に拒絶した。意識を取り戻した以上、こいつの手を借りるなんて、まっぴらだ。少し眠ったのか、体力も回復したようだし。
濃い色の瞳に、一瞬、傷ついたような色が浮かんだ。いや、気のせいに違いない。
アソムに向かい、いつもの皮肉な口調で彼は言った。
「礼を言いたいなら、ベリル将軍に言うといいぞ」
「ベリル将軍?」
アソムが首を傾げる。ベリル将軍は、向こうで馬に水をやっていた。
「そうだ。彼が、中庭で王子と話していたことを覚えていてくれたから。俺が帰って来る直前まで、王子に剣の稽古をつけていたそうだ」
全く怪しからんことだ、という声が聞こえた気がした。が、アソムは涼しい顔をしている。どうやら俺の空耳らしい。
何食わぬ顔をして、将軍は続けた。
「見たら、門が開いていて、王子に与えた馬の姿が見えなかった。しかし、おとなしい王子のことだ。中庭に彼がいたことをベリル将軍が覚えていなかったら、まさか外へ出て行ったとは、誰も思わなかったろう」
「私が貴方の副官に聞いた話と、ちょっと違いますな」
気取った声でアソムが言った。
「サリ大尉の話では、王子が部屋にいないと騒ぎ出したとか。シャルワーヌ提督。貴方ご自身が」
「嘘を言うのはよくないな」
尊大な声が遮った。
「後でサリには、仕置きをしておこう」
ちらっと俺の顔を見た。真っ直ぐに見返してやると、すぐに目をそらした。あらぬ方を見つめたまま、彼は続けた。
「仕置きと言えば、ジウ王子。捕虜の身でありながら勝手に馬に乗り、門の外に出ていくとは、許されざる所業なのは、おわかりだろう? 貴方にも、相応の罰を課さねばならない」
「はい」
俯き、俺は答えた。
確かに、将軍の言う通りなのだ。軍の規律を守る意味でも、勝手な行動は許されない。ましてや俺は、捕虜だ。縄打たれずに、行動の自由が認められていること自体が、異例なのだ。
頷き、シャルワーヌ将軍は去っていった。
部屋に戻り、いや、戻る途中も、アソンの愚痴は続いた。本当に彼は、身も細るくらい、心配していたらしい。
「全く、お一人で門の外へ出て行くなどと。いったいどうして、そのような無謀な真似をなさったのです!」
「ごめんね、アソム。息苦しかったんだ。だって僕は館に閉じ込められたままで……。村の人たちとお話をしてみたかったんだよ」
「王子」
アソムが声を詰まらせた。
「お気の毒に。そうです。貴方にはもっともっと、自由が必要です。特に、思春期のあなた様にとって、人間関係は必要欠くべからざるもの! それなのに、王子の身の回りには、無骨でがさつな軍属しかいなくて……。これは全く、憂うべきことです」
捕虜としては破格の待遇だとは、アソムは思っていないようだ。
「しかしながら、砂漠には危険がいっぱいだと、思われなかったのですか?」
「うん。つい夢中で」
「シャルワーヌ将軍も、大層お怒りでした」
「そうだね。ねえ、アソム。彼は僕に、どんな罰を与えるだろうか」
「罰……」
驚いたことに、アソムの頬に笑みが浮かんだ。彼は立ち上がると、部屋の隅から何かを持ってきた。
ふんわりとした、繊細な織りの毛織物だった。
「これが、あなたの部屋に落ちていました」
「きれい……」
思わず手に取り、頬に当ててみる。
「それにとても柔らかい」
「カシミヤです」
「カシミヤ?」
「たいそう高価なものです」
「なぜこんなものが、僕の部屋に?」
全く心当たりがない。
「シャルワーヌ将軍が持ち込まれたのです。恐らく、首都からのお土産でしょう、ジウ王子、あなたへの」
「えっ!」
火傷したように、薄い毛織物から手を放す。ストールは、ふわふわと春風のように床に落下した。
薄い笑みを浮かべ、アソムがそれを拾い上げた。
「彼があなたに、ひどい罰を与えることはありません。アソムにはよくわかります」
昔から王家に仕えている侍従は、自信を持って断言した。
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