信じる


 「毒を塗った小刀は要らないのか? ユートパクスの将軍を殺したくないと?」

一切の表情を浮かべず、イサクが問う。

「いや……」


 シャルワーヌを殺したい。王を裏切った革命軍の将軍を。


「弱いお前に、相手を斬り殺すのは無理だ。毒を塗った刃物で隙を狙うしか、方法はあるまい」

「……」


 確かにイサクの言う通りだ。今の俺は、王の将校、エドガルド・フェリシンではない。細い腕、定まらない体幹の、ひ弱なウテナ王子だ。


「あの総督を殺したら、俺の所へ逃げてくるがいい。匿ってやろう」

「本当に?」


 館の近くの村人と繋ぎをつける作戦は、失敗した。無事に帰れたとしても、俺の監視はますます厳しくなるだろう。もはや一人で外へ出られるとは思えない。

 イサクの提案は、渡りに船と思えた。


「妾を護るのは当然だ」


 顔色一つ変えず、イサクが言う。頼もしいと言えば、頼もしく見えないこともない。ムメール族には武力もある。村人に頼るより、勝算は高い。

 問題は、その代償だ。


「どうしても、お前と寝なければだめなのか?」

「言ったろう? 特別な繋がりを持つのだ。それが条件だ」


 深いため息を俺はついた。

 前世の俺は、女性経験も男性経験もあった。好きでもないやつと寝たこともある。エドガルド・フェリシンにとって、だから、このハードルはごく低いものといえた。


 目の前にいるムメール族のベルは、自分に暴力を振るわないだろうと、冷静に俺は計算した。それに、ここにいるのは彼だけだ。さっきのように大勢の男たちに輪姦されるわけではない。だからジウ王子の意識が、シャルワーヌに助けを求めることもないだろう。


 あれは本当に困惑した。抵抗する気力も殺がれてしまったくらいだ。

 つまり、ウテナ王子は、なのだ。だから大勢の男たちに囲まれて混乱し、当座の責任者、つまり、上ザイード総督に助けを求めたに違いない。ウテナ王子を捕虜にした時点で、彼にはジウを、他部族から庇護する義務があるのだから。


 「初めてだと思う」

 ついに俺は口にした。


 エドガルド・フェリシンなら、ためらいはなかった。だが、箱入りで育てられたこの少年の体が、ムメール族のベルとの行為に耐えられるわけがない。


 イサクは眉を上げた。

「思う?」

「あ、初めてだ」


 ジウの今までの生涯を、俺は知らない。だが彼の体は固く、肌にはしみひとつない。性的な経験はないと、断言できる。

 シャルワーヌを確実に仕留める為に毒を塗った小刀は欲しい。一方で、報酬に体を差し出すのは論外だ。男同士の行為に、か弱いウテナ王子の体が耐えられるか、不安しかない。


 そんな野蛮な博打を打たなくても、礼の仕方はあるのではないか。たとえば無事にウテナに帰れれば、ムメール族にとって有用な報酬を支払うことも可能かもしれない。

 低い声で、イサクが笑った。


「何がおかしい?」

気色ばんで問い質す。


「ユートパクスの将軍の想い人を奪ってやったらどんなに楽しいかと、最初は思った。だから、屋敷を見張らせ、お前が無防備になる時を待った。お前の処遇は特に考えていなかった。だが、部下たちが俺の戦利品に勝手に手を出すのは法度だ。お前をこのテントに呼んだのは、それだけの理由だ」


 戦利品とか、法度とか。言ってる意味がわからない。ただ、自分が見張られ、誘拐されたことだけはわかった。

 イサクは愉快そうだった。


「まさかこれほど美しかったとは。柔らかく淡い色の髪、滑らかな肌。まるで大理石の彫刻のようだ。そして、そのなりでいながら、気が強く、思い切りがいい。ユートパクスの将軍が手を出したくなるのもよくわかる」


 ……思い切りがいい?

 そこがひっかかったが、当座、俺には是非とも言っておかねばならないことがあった。

「あいつとは何もない!」


「それは良かった」

 意味のわからないことを口にし、イサクは余裕の笑みを浮かべた。ずる賢く、狡猾そうな笑みだ。

「ユートパクスの将軍は愚かだ。大事な物を後回しにするとは。誰かに奪われるのを待つだけだ。欲しい物には、即座に手を出すべきだ。俺はそうする」


 言い終わるなり、豹のように飛び掛かってきた。滑らかな流線型を描いて俺にのしかかると、クッションの上に押し倒した。


「初めてと言ったな。奴隷に任せず、全て俺がやってやろう。ベル自らが妾の体を開くのは、特別なことだ。心して堪えるがいい」

「ちょ、ちょっと待て。俺はお前の妾になる気はない!」


 獰猛な目が見下ろしてきた。猛獣の目だ。


「いまさら何を言う。その眼差しで誘っておきながら」

「そんなことはしていない!」


 俺は、自分の体を差し出さずに、シャルワーヌを殺す算段をしていただけだ。誘う? どこをどう押せば、そうなるのだ?


「お預けを喰わされて、体も待ち焦がれている」


 はっと俺は、相手の目線を追った。イサクは敗れた衣服の隙間を見つめていた。溶けた蝋を垂らされてできた火傷。その恐怖を体が忘れられずにいた。全身の警戒が、胸の突起にも表れていた。俺の胸の先端は、鋭く突きあがっていた。

 胸の赤い尖りに、イサクが手を伸ばしてくる。


「っ!」

 与えられる痛みを予感し、俺は必死で身を捩らせた。

 その時だった。


 轟音と共に、周囲を覆っていた布が吹っ飛んだ。

 なじみのある爆音だ。ジウではなく、エドガルドにとって。

 強風に巻き上げられ砂が飛び散り、目を開けていられない。


 俺を組み敷いたまま、しばし、イサクは呆然としていた。だが、彼の立ち直りは早かった。


「迎えが来たようだな」

耳元で囁く。含み笑いを湛えた声だった。

「俺は行く。とは顔を合わせたくないのでな」

 体を起こすと、猫のようにしなやかに、立ち去っていった。


 少しずつ、砂ぼこりが治まっていく。


 「だから、榴弾砲なんてダメだと言ったんだ! こんな飛距離の短い、力のない大砲を押し付けるなんて!」

罵声が聞こえた。


「だって、この距離でカノン砲をぶっ放したら大変なことになるでしょうが! 榴弾砲で充分です。いや、普通の銃撃でたくさんだったんだ!」

 これはベリル将軍だ。屋敷で俺が最後に見た時、彼は、シャルワーヌ将軍の方へ向かって歩いていた。すると最初の声は……。


「ジウ王子! 無事か?」

濃い色の目が俺を見つけた。狼狽した色が浮かんだ。

「おい、何て格好を……」

 逞しい腕が抱き起す。

「服がボロボロじゃないか。怪我はないか?」

「ひどい拷問の跡だ!」


 シャルワーヌ将軍が問うのに、ベリル将軍が重ねて叫んだ。

 俺を支える腕が硬直した。火傷の跡と噛み傷に、初めて気がついたようだ。


「誰がやった?」

きつい声で問う。途端に、胸の鼓動が激しくなった。

「これは、イサクのテントだ。イサクにやられたのか?」

「違います」

 俺の体に傷をつけたのは、イサク自身ではない。彼の部下だ。


「丘の向こうにムメール族がキャンプを張っているのは知っていた。どれがベルのテントかも把握していた。ああ、こんなことなら、ムメールのキャンプは殲滅しておくべきだった!」

 シャルワーヌが嘆いた。血を吐くような声だ。ベリル将軍が鼻を鳴らす。

「好きなようにさせておけと言ったのは、貴方だと聞きましたが、シャルワーヌ将軍」

「まさかウテナ王子をさらうとは思わなかったのだ!」

 シャルワーヌの体からは、憤怒が噴き出ているようだ。


「シャルワーヌ将軍」

ベリルが声を潜めた。

「ムメール族にさらわれた兵士達は、例外なく男として非常な屈辱を受けていました。救出された後、自殺の道を選んだ者もいた」

総司令官オーディン・マークスは、自ら命を絶つことを禁じられた」


 短くシャルワーヌが応じる。彼は上の空だった。その目は、俺の胸に注がれていた。火傷の跡と、胸の突起の噛み傷……。

「くそう。ひどいことを!」


 一層言いにくそうに、ベリルが続けた。

「もしかして、彼も……」


「ジウ王子。イサク・ベルに犯されたのか?」

 ベリル将軍の気遣いを無駄にして、ずばりとシャルワーヌが問い質す。

「いいえ」

即座に否定する必要を感じた。今の将軍は、いつもと違う。冷徹なまでの落ち着きがまるでない。

「僕は誰にも……」

 「犯す」という言葉が口にできなかった。


「そうか。信じる」

とだけ、シャルワーヌは言った。


 ……信じる?


 変な言い方だと思った。俺の言ったことを信じる。誰にも犯されていないと言った。その言葉を信じる。

 俺が、誰にも犯されていないことを


 なぜ信じる必要があるのか。俺がイサクに犯されていても、一向に構わないではないか。彼の言い方は、なんだかまるで、祈りのように聞こえる。俺が誰にも奪われていないことを、強く願っているような気配がする。


 「とにかく、そのままではいけない」


 そう言うなり、シャルワーヌは自分の上着を脱いだ。切り裂かれた服の上から、ばさりとかぶせる。

 将軍の汗の匂いがした。

 胸が激しく乱れ打ちし始めた。

 シャルワーヌ将軍の顔が、あまりに怖いからだ。これは、恐怖の発作だ。


 「ジウ王子をあまり追い詰めてはかわいそうだ」

ベリル将軍が割って入った。

「追い詰めてなどいない」

不本意そうな声が言い返す。

「だって、彼は怯えているではないか。貴方のその顔では無理はない」

 シャルワーヌは、はっとしたようだった。自らの顔を撫でる。

「俺はそんなに怖い顔をしていたか?」

「ええ、魔王のようでしたよ」

「そうか。済まなかったな、ジウ王子」

「……」

 なんと答えていいのかわからなかった。


 すっと体が浮いた。シャルワーヌが抱き上げたのだ。頬に、かっと血が上った。胸の鼓動が激しく、痛いくらいだ。


「ともかく、屋敷へ帰ろう。マワジから医者も連れてきた。彼に診てもらう」

 そのまますたすたと歩きだす。








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