砂漠のランデブー
砂漠のオアシスでは、日中は驚くほど暑い。泉の木陰か建物の中か、とにかく日陰で凶暴な太陽の光を避けてじっとしているしかない。
活動は夜間に限られた。昼間の灼熱の暑さに比べ、夜は寒いくらいに気温が下がる。この温度差が、弱い体には、きつかった。
勢い、俺が戸外へ出るのは早朝か夕方、太陽が勢いを持つ前後の僅かな時間に限られた。
シャルワーヌ将軍から指示があったのだろう。庭に出ていくと、決まって当番兵が現れるようになった。将軍自身が見張りに付くなどという非常識はあれ以来なかった。
内庭でしばしば、出掛けて行くシャルワーヌ将軍を見かけた。ムメール軍の撃退か、或いは、住民の訴えに耳を傾けに行くのだ。軍の指揮官として、また、上ザイードの総督として、彼は忙しい日々を送っているようだ。
将軍はいつだって、庭の向こうを早足に歩いていく。地味な服装と、後ろに長く束ねた黒髪。軍服でいることはむしろ少なく、この地方独特のゆったりとした衣装をたなびかせて歩いていることの方が多かった。
その姿を見かけるたびに、俺の胸は高鳴った。恐ろしさに脈拍が上がっているのだと思う。慌てて彼から目をそらすのだが、時には、頬が赤らむこともある。まるで発熱したようだ。恐怖のあまり胸の病を誘発したのではなかろうかと、密かに俺は危惧している。
将軍は、決して俺のいる方に顔を向けることはなかった。副官と話しながら、或いは、何事か一心に考え込みながら、足早に庭を横切っていく。
庭の反対側にいる俺の姿になぞ、気がついていないようだ。俺は、彼の捕虜に過ぎない。無事で生きていさえすれば、ウテナ王に顔向けできるということなのだろう。
一抹の寂しさを感じた。
寂しさ? そんなもの、感じるわけがない。何を言ってるんだ、俺は。
そんなある日、将軍が、長く留守をすることになった。ザイードの首都、マワジへと出かけるという。
「オーディン・マークス総司令官に会いに行くんですよ」
教えてくれたのは、アソムだった。仲良くなった衛兵から、聞いたのだそうだ。
「ここからマワジまでは、馬で3日はかかります。総司令官に会えば、当然、報告やら新たな指令やらで時間がかかるでしょうから、当分、シャルワーヌ将軍は帰って来ないでしょう。よかったですね、プリンス。これでしばらく、彼の姿を見ないで済みますよ」
俺も全く同じ意見だった。本当にあの胸の鼓動の乱打と頬の紅潮、膝の震えには辟易していた。シャルワーヌ将軍の姿さえ見えなければ全く平常だったので、まとまった期間、彼が留守をするというのは、俺にとっても朗報だった。
筈なのだが。
「彼を、オーディン・マークスに会わせたら、ダメだ」
「ジウ王子?」
アソムが怪訝そうな顔をする。
当惑したのは、俺も同じだ。
「シャルワーヌ将軍は、オーディンに会ってはいけない!」
ここにシャルワーヌ将軍はいない。それなのに、全身が
「王子は本当に、
アソムが苦笑いをしている。
不愉快だった。
いや、オーディンが嫌いなのはその通りなのだが、なぜかその理由が前世とは違う気がする。もっと重大で、もっと個人的な……。
ぷいと、俺はアソムに背を向けた。こんなことは、礼儀正しいジウ王子としては珍しいことだ。
大股で部屋を出ていく。
朝の、まだ日の出前の時間だった。戸外での活動が許される、僅かな時間帯だ。
「馬を!」
見張りの衛兵に、俺は叫んだ。少し前から、乗馬の練習を始めたのだ。ひ弱な王子が体幹を鍛え、馬を走らせることができるまでには、まだ時間がかかりそうだった。
案の定、衛兵は薄ら笑いを浮かべた。へっぽこ王子が、とでも思っているのだろう。それでも、厩舎から、馬を連れてきてくれた。いつも同じ、灰色の馬だ。この馬が、一番おとなしいらしい。
衛兵の手を借り、馬に乗る。
「付き添いは要らない」
手綱を握ろうとする彼に言い放つ。
前世の俺、エドガルド・フェリシンは、騎乗の名手だった。その記憶が残っている。こんな貧相な馬くらい、なんでもない。
ひどくむしゃくしゃしていた。自分一人で馬を、思う存分、走らせてみたかった。
兵士は止めようとしなかった。無言で引綱を外し、歩き去っていく。彼にとっては捕虜の身の安全など、二の次三の次なのだろう。その捕虜自身が、一人で乗ると言い張ったことなのだし。
兵士の背中を見送ると、俺は馬を歩かせ始めた。確かにおとなしい馬だ。かなり年を取っている。飼葉の節約の為に売り払われるか、殺されていてもおかしくないくらいの年齢だと思われる。
もちろん、慎重さは心掛けていた。今の俺はジウ王子だ。乗馬だけでなく、剣術、武道など、体を使うことにかけては、老齢馬と同じくらいのポンコツだ。
ゆっくりと馬を進めた。庭はそこそこ広かった。この調子なら、ギャロップで駆け回ることもできるかもしれない。
その時、目の前の地面を、何かがさっと横切った。
ネズミ?
と思った時、いきなり馬が、後ろ足で立ち上がった。走り込んできたそいつが、何を思ったか、いきなり馬の足の下に潜り込んだのだ。
落馬しなかったのは、本当にラッキーだった。咄嗟に俺は、馬の首にかじりついた。ネズミは、馬の足元を走り回っているのだろう。馬は嘶き、前へ後ろへ、重心を傾けた。激しい足踏みをしている。背中は前後左右、そして上下にも大揺れに揺れる。
おとなしいんじゃない。この灰色の馬は、臆病だったんだ!
足の間のネズミに怯えてパニックに陥ったのか、馬はくるくると回り始めた。
悲鳴を上げることもできず、奥歯を噛みしめ、俺は馬にしがみついていた。振り落とされたら、ひとたまりもない。ネズミと一緒に、踏み殺されてしまうだろう。それ以前に、落馬の衝撃で骨の2本や3本は、確実に折れる。
ぐるぐると回る馬の背で、俺は限界を迎えつつあった。ジウの弱い手が、ぴりぴりと痛む。鎖骨の辺りに痺れが走り、背中が引き攣れだした。もう、馬の首にしがみつくことができそうにない。
このまま地面に落ちるのか。
そう思った時、誰かが襟元をぐいと掴んだ。あっと思うまもなく、上へ引き上げられる。力いっぱい馬の背を挟んでいたはずの足があっさりと外れた。
「この、向こう見ずが!」
愛しい声が吐き捨てる。
……? 愛しい?
シャルワーヌ将軍だった。体高の高い軍馬に跨り、どこからか馬を走らせてきたらしい。
彼は、猛烈に怒っていた。俺を自分の乗った馬の背に引き込むようにして乗せ、馬は俺の所に走り寄って来た勢いのまま、走り続ける。
俺は鞍の上、彼の前に乗せられていた。崩れた姿勢を、片腕の力だけで強引に横向きにさせられる。手綱を握る腕が俺の体を抱え込み、側頭部が彼の胸に押し当てられた。
勢いが止まらず、軍馬は、門から外へと走り出た。
揺れの性質が変わった。馬は、乾いた砂の上を走っていた。馬を走らせたまま、彼は激しく叱責した。
「無謀なことはするなとあれほど言っておいたのに! 君の体はまだ、本調子ではないのだ」
彼の声は、それほど大きくはなかった。走る馬の背で、風にさらわれないように、耳もとで囁く。あっという間に、自分の耳たぶが赤く染まるのがわかった。頭に血が上った。
「貴方が悪いんだ!」
俺でない誰かが叫んだ。
「貴方が、オーディン・マークスに会いに行くなどというから……」
「何を、」
馬のスピードが落ちた。ギャロップから二拍子の早足へ、さらには常歩へと速度を落とし、馬が止まった。
しばらくの間、彼は無言だった。
我に返り、俺は辺りを見回した。
広大な砂漠を、この時俺は始めて見た。波打つように続く砂の山、また山。色のあるもの、動くもの、生きとし生けるものの気配は皆無だった。
広大な無の中に存在するのは、ただ馬と、そして、俺と彼。俺達は砂漠の中の小さな点に過ぎなかった。
「上ザイードに帰ってきた時、君は変わったと思った。ひどい病から回復したばかりだったせいだと最初は思った。だが違う。明らかに君は変わった。積極的になり、体を鍛え始めた」
もしや、魂の入れ替わりに感づかれたのか?
俺はひやりとした。
まさか。
「いい兆候だと思った。君はただの捕虜じゃない。もっと重要な存在となり得る。だから……」
意味が分からなかった。
ただの捕虜じゃない? シャルワーヌは、ウテナの王子をいったいどう利用する気なのだろう。
村をひとつ壊滅させた盗賊を兵士として雇う彼のことだ。どうせろくなことではあるまい。
深く考え続けることはできなかった。俺は今、彼に横抱きにされた状態で馬に乗っている。顔を上げれば、傷のある顔が端正な目鼻立ちをそのままに間近に見える。幾多の戦闘で鍛えられたたくましい両腕できつく囲い込まれ、密やかな彼の香りに包まれている。
胸がどくどく言い始めた。体が熱く火照りだす。こうなるともう、冷静にものなんて考えられない。
ごわごわとした布地の向こうで、シャルワーヌの鼓動は少しも揺らぐことなく、正確に打ち続けていた。背筋をぴんと伸ばして馬を操りながら、彼は言った。
「
深い絶望が襲ってきた。
シャルワーヌ将軍がオーディンを崇めているというのは、本当だった。よく似た二人なのだ。王を裏切り、革命軍に与したこの二人は。
だが、俺が感じた絶望はもっと深く、もっと私的な悲しみに根差していた。彼をオーディンに会わせたくないと強く願った。
オーディンが憎い。
そうだ。俺が彼を嫌うように彼は俺を恨み、最終的には、エイクレ要塞ごと俺を爆撃し、殺した……。
違う!
オーディンが、彼に執着するからだ! 彼がオーディンを愛し続けるからだ!
……。
砂漠の遥か彼方に、土埃が見えた。黒い小さな点が3つほど、砂丘を駆け下りてくる。
小さく、シャルワーヌが舌打ちをした。
「さっそく、ムメール軍のお出ましだ。ほんの少し、屋敷から出ただけなのに、全く勤勉なことだ。無駄な戦いはしたくない。戻るぞ」
丘の中腹で、振り上げられた三日月刀が陽の光を受けてぎらりと光った。
馬首を巡らせ、俺を横抱きにしたままシャルワーヌ将軍は邸宅の防壁の内側へと戻っていった。
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