制御できない熱


 部屋の外で言い争う声で目が覚めた。

 一人はアソムだ。もう一人は、知らない声。ユートパクス語を話している。深い響きの声だが、滑らかさに欠け、どこか引っかかるような感じがする。

 朝も早い時間だ。部屋の中は薄暗い。


「いけません! 王子はまだ就寝中です!」


 一際強く、アソムが抗議する声が聞こえた。相手が何か言い返し、間髪入れずドアが開けられた。


 エドガルドだったころの俺なら、即座に起き上がり、侵入者に備えただろう。だが、腹筋の弱いこの体では半身を起こすことさえ容易ではなかった。上掛けを跳ね飛ばす脚力もない。力なくベッドに寝そべったまま、侵入者を迎えた。


「いいから。そのままで」

 入ってきた男は言った。


 濃い色の目、顔色はやや悪く、長く真っ直ぐな髪を無造作に後ろで束ねていた。服装は地味で、まるで下働きの男のようだ。そして彼の両頬には、引き攣れたような傷があった。

 どこかで見たことがある顔だと思った。だが記憶はあいまいで、それがジウのものなのか、以前の俺エドガルド・フェリシンのそれなのかさえ、定かではない。


 考え込んでいると、突然、体が裏返されるようなひどい衝撃を感じた。熱い感情が腹の下の方から湧き上がって来た。それが何かはわからない。理性では制御不能の、熱い思いだ。

 意志に反して、細い腕が持ち上がった。両腕ともゆるゆると肘が伸ばされていく。

 ……男の方へ。


 ぎょっとして、俺は自分の手を引き下げた。何をしているんだ、俺は!


 腕の動き封じることに成功したせいだろうか。正体不明の熱情は、束の間、影を潜めた。


 幸い、俺の不審な動きは、入り口の近くにいた男には、気づかれなかったようだ。


「意識が戻られたそうだな。良かった」

男はベッドに近づいてきた。

「あなたは?」

 なんとか身を起こし、尋ねる。


 相変わらず、エドガルドとしての記憶が蘇ってこない。俺は確かに、この男を知っているのだが。

 男は眉を顰めた。


「なるほど、従者達の言う通りだ。いろいろ忘れてしまったとみえる。だが、気にすることはない。長い病だったと聞いた」

それから、男は名乗った。

「俺は、シャルワーヌ・ユベール。上ザイードの総督だ。忘れてしまっても構わない。君とは、それほど近しい間柄ではないから」


 今までアソムは、総督の名を教えてくれなかった。祖国を攻撃し、俺を捕虜にした男の名だ。不安定な状態の主に、刺激を与えまいとしたのだろう。今、転生して初めて俺は、その名を聞いた。


 シャルワーヌ・ユベール。

 ジウに転移してから初めて聞いた名だ。心がざわついた。やっぱり俺は、エドガルドは、こいつを知っている。いや、知っていた。

 間違いなくこいつは俺の敵だ。それだけがわかった。


 その時、再び背骨の折れそうなほどの力が体の奥底から湧き上がった。内臓を焼き尽くすほどの熱が烈しい勢いでせり上がってくる。


「どうした? ぼんやりして」

「いいえ。あの……」


 まるで体の裏側から焼かれるような激甚な熱。内臓を焦がすほどに熱く、暴力的なまでに激しい。

 俺の額に冷や汗が浮き上がった。なんだ。俺の体に、いったい何が起こったというんだ?


「ひどい汗だ。熱があるのか?」


 長い指が伸びてきて、額を拭おうとする。身を捩って俺はそれを逃れた。

 ……、

 違う。そうじゃない。

 指が、

 長く真っ直ぐな指。無造作に、しかし短く清潔に切り揃えられた爪。

 触れられたいと、痛切に願った。突如湧き出てきた不可解な願望と、俺は懸命に戦った。


 シャルワーヌは、首を傾げた。

「まだ本復ではないようだな。よく休むがいい」

「捕虜の健康を、気にかけてくれるんですか?」

 なんとか心を落ち着かせ、俺は言った。皮肉のつもりだった。

「当たり前だ。捕虜が健康でいることは、総督の義務だからな」


 シャルワーヌは微笑んだ。思いがけず、温かい、優しい笑顔だった。

 既視感のある笑顔だ。覚えのあるのは、名前だけじゃなかった。やっぱり前世の俺は、この男に会ったことがある。


 亡命貴族の俺エドガルド・フェリシンと、革命軍の将軍シャルワーヌ・ユベール。


 それは、敵同士の対決に違いなかった。この男は、いつの日か、確実に仕留めなければならない相手だ。士官学校の同窓生、今では敵の総司令官であるオーディン・マークスから有能な部下を奪い、窮地に陥れる為にも。


 シャルワーヌの記憶を、もう少しで思い出せそうだった。だが、体の奥から湧いた熱が記憶の覚醒を邪魔する。熱い塊が次々と湧き上がり、胸の鼓動が痛いぐらいに乱打する。


 ひどく気分が悪かった。

 全身に脂汗を掻きながら、しかしその熱の底に何らかの甘さがあることに気づいた。


 力が抜ける。手や足の。

 膝が震え、一人では立っていられない。

 怯えのような震えの奥底にある、痺れるような甘さ。


 ……甘さ。


 不意に頬が熱くなった。頭に血が上ったようにぼうっとして、考えがまとまらない。


 捕虜の様子に総督は不安を覚えたようだ。

「ウテナの父君も心配しておられると聞く。もし君が希望するなら、国へ帰すことを考えてもいいのだが」

「いやだっ!」

 俺は叫んだ。


 半分は、否、7割は、身の内に沸き上がった激情だった。だが、残り3割は、エドガルドとしての意志だ。ウテナになど行きたくない。俺はこの男を殺さなければならない。


「将軍」

 それまで黙って傍らに控えていたアソムが口を開いた。

「ジウ王子はまだ本復ではございません。ウテナへ帰りたくないなど……。混乱なさっているのに違いない。今、彼が言ったことは、本来の王子の意志ではありません」


 鼻息荒く言い募る侍従に、シャルワーヌは首を竦めた。


「俺も君の言う通りだと思う。この子はひどく具合が悪そうだ。だが……」

「だが?」

「いや」


 首を振って、シャルワーヌは会話を打ち切った。

 アソムは治まらない。強引に捕虜に取られた王子の付き添いとして、彼には言いたいことがいろいろあるようだ。


「あなた方ユートパクス人がどのような道徳観念の元に生きておられようが、我々には特に言いたいことはございません。ですが、このようなやり方は、全く理解できません」

「このような、やり方?」

「捕虜の弱い立場を利用するような真似です!」

「捕虜の立場を利用する? どういうことだ?」


再び、怪訝そうにシャルワーヌが尋ねる。アソムは激昂した。


「お国の将校方がやっておられるようなことですよ!」

「ユートパクスの将校達が?」

シャルワーヌが惚けていると見て取ったのだろうか。むしろ冷ややかにアソムは答えた。

「首都のマワジでの噂は、私どもの耳にも入ってきております」


 青白かったシャルワーヌの顔が、さっと赤らんだ。


「アソム殿。誤解があるようだから言っておく。俺は、捕虜に手出しをするような卑劣な真似はしない。ましてや彼は男で、しかも次のウテナ王位を担う身だ。その身を汚すような真似は許されることではない」


 胸がとくんと鳴った。彼がこちらへ向き直ったからだ。語調を和らげ、話しかけてくる。


「いやだというなら、ウテナへ帰すつもりはない。俺にしてもその方が楽でいい。君を国へ返すには、総司令官殿の許可が必要だからな。いろいろ手続きがめんどうなのだ」


 その総司令官が、オーディン・マークスだ。そうだ。この男は、オーディンの犬だ。己の存在自体が恥だと知るべき男だ。


 少しの間、彼は俺の顔を眺めていた。濃い色の瞳が翳りを帯び、吸い込まれそうな引力を感じる。


 ……彼が俺を見つめている。


 再び、胸がどくんどくんと打ち始め、俺は途方に暮れた。次の発作、凶悪なそれを抑え込める自信がない。

 幸い限界が来る前に、シャルワーヌは背を向け、歩き去っていった。








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