第15話
神原愛瑠が亡くなった翌日――五年A組を含めた学校全体が、深い悲しみに包まれていた。全校集会で人気者だった生徒の死を告げられ、下級生、上級生問わず彼女と親交があったものは皆、一様に悲嘆に暮れている。
告別式には三日間降り続く長雨で足元が悪い中、多くの参列者が参列していた。
緑ヶ丘小学校の生徒も鼻水を啜りながら、大人の見様見真似で焼香をあげると参列していた教師も順番に焼香をあげていく。
とうとう自分の番が巡ってきた薬師寺の顔は、一日で涙が枯れ果てたようにカサカサに乾燥していて生気を感じさせない虚ろな目で正面を向いている。
屈託のない笑みを浮かべる遺影を前に、誰よりも深く頭を下げて震える背中を、雨宮は自らも順番を待ちながら見ていた。
薬師寺から「しばらく休職したい」と連絡があったのが、今朝のことだった。
担任教師が事前に相談もなく、電話一本で休職したいと申し出たところで受け入れられるはずもないのだが、今回は事が事なだけに誰も彼女を責めることは出来なかった。
「薬師寺先生はきっと戻ってこないでしょううね」
告別式を終えて一人帰ろうとしていた雨宮を、半ば強引にお茶に誘った榎本は立ち寄った喫茶店でそう口にした。
頼んだコーヒーが熱かったのか、息を吹きかけて冷ましながら飲んでいる。
「雨宮先生もそう思わないですか」
「それは本人の問題ですから、外野がとやかく言うべきことではないでしょう」
「相変わらずクールですね。そこが素敵なんですけど」
口も軽ければ態度も軽い榎本に同意したくはないが、同僚の誰もが薬師寺の職場復帰は望み薄だと考えている。表立って口にはしないが、このまま有給を使い切って辞める線が濃厚だろうと教師間で噂されていた。
「しっかし、告別式で見た愛瑠ちゃんの父親はずっと泣き崩れていた母親と違って、気丈に振る舞ってましたね。もし僕に子供がいたとして、突然亡くなったりでもしたら喪主なんてとてもじゃないけど出来ませんよ」
「そうかしら。私にはそうは見えなかったけど。機械的に喪主の仕事を仕事をしているように見えなくもなかった」
「考えすぎじゃないですか? 愛娘を失った直後ですし、余計なことを考える余裕がないだけだと思いますけど」
「そう言われるとそれまでなんたけど、なんだか夫婦で温度差があるというか、娘を溺愛していた父親のそれとは違うような……」
告別式からずっと胸につっかえているモヤモヤの正体が一体何なのか、考え続けていたがさっぱりわからない。
「そういえば、雨宮先生って赴任してきてからずっと愛瑠ちゃんの転落事故の原因を探ってましたけど、結局真相には辿り着いたんですか?」
「真相かどうかはわからないけど、神原奈々が
「うわ、マジですか……。あのキツイ性格ならやりそうではありますけど」
榎本は顔をしかめてコーヒーを啜る。
「あと、父親の神原友樹は娘に対して、理想の少女像を押し付けている節が見受けられたことくらいかしら。部屋にお邪魔したら、娘のためにと買ってきた小物でピンク一色だったし」
今思い出しても、あの光景は神原愛瑠という人間の個性を上書きするに十分なものに思えた。形を変えた暴力――本人に悪意がないだけタチが悪いとも言える。
「なんていうか、大人って大なり小なり、子供を意のままに操ろうとするところがあるじゃないですか。自分が子どもの時に、〝こんな先生にはなりたくない〟って思ってた教師と、同じ言葉を口にしてるって気がついたときには穴があったら入りたくなりますもん」
「あはは、確かにそれはあるかも」
榎本の言わんとすることが理解できて、つい表情を崩すと途端に顔をニヤけさせた。
「やっと笑ってくれましたね」
「……今のはなしで」
「無理ですね。やっぱり雨宮先生は可愛いですよ」
「悪いけど、いくら口説いたところで絶対に榎本先生には落ちないから」
好きを見せてしまったことを後悔して、自分のコーヒー代だけ支払って帰ろうと財布を取り出すと――テーブルの上に神原愛瑠の部屋で拾った割引券が、ひらひらと落ちた。
「あれ、これって」
先に拾った榎本は、割引券を裏表しげしげと確認していた。それが妙に気恥ずかしくなり、すかさず奪い取ると財布の中に戻す。
「期限は切れてるけど、僕もよく行くスーパーの割引券じゃないですか。もしかして雨宮先生もよく行かれてるんですか?」
「それは私のじゃない。神原愛瑠の部屋で見つけたのを譲り受けたの。タワーマンションに住んでいる小学生が持つには違和感を感じてね」
自分でも言い訳がましく聞こえる弁明に、榎本は特に気にする素振りも見せず、「そういえば」と何かを思いたしたように言った。
「僕も、何度か愛瑠ちゃんが一人でそのスーパーを訪れているのを見かけたことがあります」
「神原愛瑠が? 両親と一緒ではなくて?」
「ええ。最近は全然見みませんでしたけど、以前は一人で頻繁に来ていましたよ。いつも同じ店員さんと親しげに挨拶を交わしたりしてましたね」
「ただの小学生が、店員さんと? なんだかおかしな組み合わせじゃない。相手はどんな人だったの」
「ちょっと待ってください……ネームプレートに書かれた名前がこの辺まで出ているんけど……思い出せません」
✽
あともう少しのところまで記憶をたぐり寄せた榎本だったが、結局思い出せないまま喫茶店で分かれて家路についた。
自宅のマンションに辿り着いてオートロックを解除する。すぐに喪服はクリーニングに出さないと、なんて考えながらエレベーターで四階まで上がる。
玄関の前で立ち止まると鞄の中でスマートフォンが振動した。画面に目を向けると榎本からの電話だった。
なにか忘れ物でもしたのか。電話に出ながら鍵を開けようとすると――いつもは感じる手ごたえを感じなかった。
――鍵を締め忘れていた?
「どうしたんですか?」
「ああ、なんでもない。それより何の用?」
「さっき思い出せなかった名前なんですけど、ようやく思い出しました」
「なに? 煩くて聞き取りにくいんだけど」
パンプスを脱いでリビングに向かう。
背後から聴こえる雑音が喧しく、処かの安居酒屋で飲んでいるような騒ぎっぷりが電話口から漏れ聞こえた。どうやら分かれてからすぐに飲みに出かけたらしい。
よくもまあ生徒の葬儀の後にと思わなくもないが、榎本が聴き取りにくい声で思い出したという名前を告げたと同時に、リビングの明かりをつけた雨宮は目の前に広がる光景に言葉を失った。
「なに、これ……」
「どうしたんですか? もしもーし」
普段から整理整頓を欠かしていないリビングが、まるで泥棒に侵入されたとでもいうように乱雑に物が散らばっている。
足の踏み場もないほどに散乱する部屋に足を踏み入れると、テーブルの上に洗濯かごに入れていたはずの下着が置かれていた。近寄って手に取ると、驚きのあまり手放した。
床に落ちた下着には、まだ時間が経っていないと思われる〝精液〟に似た付着物がついている。自宅に男性を連れ込んだことなど一度もないので、体液が付着してることなどあり得ない――。
握りしめていたスマートフォンから榎本の声が何度も響く。部屋中に漂う独特な臭いに吐き気を催した。
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