第14話
「急にお呼び立てして申し訳ありません」
仕事を終えた雨宮は、その足で神原家のマンションを訪れていた。最上階の部屋で出迎えた奈々の顔は、最後に保護者会で会ったときとは別人のように一気に老け込んだように見えた。
よく見れば、玄関にはまだ神原愛瑠の靴や、私物が目に付く場所に置かれている。流石に娘が亡くなった当日に片付ける心境にはならないのだろう。
案内されたリビングに足を踏み入れると、高級そうな調度品の数々が並んでいた。天井から吊り下げるシャンデリアの下には、王侯貴族の邸宅を思わせるロココ様式の家具で統一されている。
個人宅に奥には大きすぎるワインセラーには、素人でも知っている銘柄が並んでいた。それだけでも一財産にはなりそうなほどだ。
なにより目を惹くのは艷やかに磨き上げられたグランドピアノの存在。譜面台には今でも開かれた譜面が置かれていて、
「立派なピアノですね」
「それは愛瑠が練習で使っていたんです。ここは防音対策が万全だから練習し放題なんだけど、もう弾く人なんていないっていうのに、おかしな話ですけど今でも愛瑠が演奏を始めそうな気がして……」
それ以上は口にできなかったのか、涙ぐみながらキッチンへ向かった奈々の背中にはモンスタークレーマーと恐れられた迫力は微塵も感じなかった。
一脚ウン十万円は下らなそうな豪奢な椅子に座るよう勧められ、恐る恐る腰掛ける。過度な装飾がなされた室内を改めて見回すと、高級家具の数々といいどこを向いても眩しくて目の遣り場に困る。
――経済的には何不自由ない生活を送ってきて、恐らく将来に不安を抱いたこともないだろう。そんな少女が、なぜ屋上に忍び込んで転落事故など起こしたのだろうか。
神原愛瑠という生徒の背景をいくら調べたところで、彼女が自ら飛び降りる可能性が否定されるだけで目新しい情報は何一つ得られていない。
ティーカップが並ぶカップボードの上に並んだフォトフレームに、ふと視線が止まる。生後間もない赤子の頃から、成長するに従ってその時時の瞬間を切り取った家族写真が順番に並んでいた。
最近撮ったと思われる写真には、可憐なドレスを身にまとった神原愛瑠が、トロフィーを手に屈託のない笑顔で写っている。今となっては奈々の心を縛る鎖に違いないだろう。
「その写真はね、愛瑠がピアノコンクールの全国大会で準優勝を取ったときの写真なの。優勝が取れなかったことを泣くほど悔しがってたわね」
雨宮の視線に気がついてのか、キッチンから戻ってきた奈々は湯気が立ち上るカップをトレイに乗せて戻って来ると、取り戻せない過去を悔いるように説明した。
「そうだったんですか。愛瑠さんは優れた才能の持ち主だったんですね」
「それだけじゃない。あの子は私には出来すぎた子なの」
カップの中に映る自分を見るように呟いている。
「あの、どうして私と話がしたいと思うに至ったのでしょうか。正直、嫌われていたと思っていたんですが」
気になっていたことを包み隠さず伝えると、奈々は時間をおいて、「そうね」と口にした。カップの中に波紋が揺れる。
「懺悔がしたかったからかしら」
「どういう意味ですか?」
「愛瑠が転落事故なんて起こしたのは、もとを辿れば、私のせいだから」
✽
奈々は、確かに「自分のせいだ」と口にした。それがどういう意味なのか――紅茶で口を潤すと暗い目で語りだした。
「トンビがタカを産むって
「ちょっと待ってください。辛く当たってしまったって、もしかして虐待をしていたんですか」
「言葉で責めたことは数え切れません。防音なんで外には聞こえませんから、気にもしませんでした。あと……手を上げたことも。愛瑠が褒められると私が褒められているような気がして、勉強もピアノも無理をさせすぎていました」
容疑者の自白を聞く刑事の気分で、何をしてきたのか
まだ断定はできないが、少なくとも母親との関係性の悪さは〝自分で屋上から飛び降りた〟要因の一つとして、考えられる。
自分がこれまで酷い事をしてきたことを、涙ながらに語っていた奈々だったが、最近の神原愛瑠には気になる変化があったと明かした。
「あれはいつだったかしら……。急に愛瑠の情緒が不安的になった時期があったの」
「情緒ですか?」
「お恥ずかしい話ですが、私が頭ごなしに怒っても愛瑠は反抗もしないでなんでも言うことを聞く素直な子だったんです」
奈々が言う〝素直〟とは、〝自分の都合の良い〟の間違いだろう。正論をぶつけてしまえばヘソを曲げかねないので苦みを感じる紅茶を飲み下す。
「それがある日を堺に、突然暴れたりピアノの練習もサボりがちになって、部屋に閉じこもるようになったんです」
「愛瑠ちゃんがですか? 随分と学校での印象は違うみたいですね」
「今なら自分でもそう思います。ですが、愛瑠に反抗されたことがなかった私は頭にきちゃって……」
「手を上げたと」
言い淀む奈々に告げると、黙って頷いた。
「自暴自棄といいますか、家にいる間は
「ちょっと待ってください。パパもということは、御夫婦揃って神原さんを?」
「いえ。私はともかく、主人は愛瑠を可愛がってましたし、少なくとも私みたいに手を上げることも、声を荒らげることもなかったはずです」
年頃の少女であれば父親を嫌うことは、ごく自然なこと。ICUにお見舞いに訪れた際に、一度だけ顔を合わせた神原
――では、いったいなぜ神原愛瑠は父親も一緒くたに嫌悪したのだろうか。
奈々と同様に嫌われていたという証言は、どうも違和感が拭えない。
「あの、厚かましいお願いですが、愛瑠ちゃんのお部屋を見させていただいてもよろしいですか?」
「愛瑠のですか? ええ、構いませんけど……」
目尻をハンカチで脱ぐいながら、席を立った奈々に連れられて神原愛瑠の部屋に通された。そこは年齢相応といえば年齢そうなのかもしれないが、やけに可愛らしいマスコットの人形が部屋中に並んでいて、ベットカバーや壁紙もピンクの割合が多かった。まるで〝女の子〟を主張するような雑貨で溢れている。
「随分と可愛らしい小物が多いですね。愛瑠ちゃんの趣味なんです?」
「実は、主人がいないから言いますけど、ほとんどは愛瑠の趣味でないんですよね」
「それでは、これらのぬいぐるみや雑貨はいったい誰が」
主人が愛瑠に買い与えたものなんです。親バカというか、〝女の子はこういうのが好きだろう〟ってよく買ってくるんです。女の子だからって、別に可愛いものが好きだと限らないのに」
〝男らしさ〟とか〝女らしさ〟だとか、未だに囚われている人間は多い。生まれてきた瞬間は元気に育ってくれればいいと願っていたはずなのに、成長するにつれ自分の理想とする型に嵌めて、そこから逸脱するのを無意識の内に恐れるあまり、〝矯正〟という名の暴力を振るってしまいがちだ。
「あの、愛瑠の部屋になにか用でもあるんですか?」
よく整理整頓が行き届いている机を見ていると、さすがに怪しまれたのか奈々の硬い声が背中に刺さる。
「あの、愛瑠ちゃんが転落事故に遭う前に、なにかおかしな事を口にしたりはしていませんでしたか」
「おかしなこと、ですか?」
「はい。例えば、〝ワラシベサマ〟という名前を口にしていたり」
「いえ。私は知りませんけど」
奈々の表情に変化は見られず、誤魔化してるわけでもなさそうで、本当に知らないようだった。室内をそれ以上見ても、なにか事故に関係する物証が見つかるわけでもなく退室しようとすると、勉強机の椅子の下になにかが落ちているのを見つけた。
屈んで手に取ると、それは何の変哲もないスーパーの割引券だった。使用期限はとうに過ぎている。――どうして神原愛瑠のの部屋にあのスーパーの割引券が?
疑問に感じて奈々に尋ねるも、自分のものではないと答えた。
「我が家ではいつも贔屓にしているスーパーがありますので」
「そうですか……。あの、これ頂いてもよろしいですか」
「ええ。別に構いませんが」
奈々の許可を得て、割引券を懐にしまった。
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