第13話

 翌朝は窓ガラスを叩く大粒の雨音で目覚めた。太平洋上で発生した台風が速度を上げて日本列島に近づいていた影響で、活発になった秋雨前線がアスファルトに白筋となって叩きつけている。


 自宅から小学校まで徒歩十分程度の距離を、わざわざタクシーを使うのもなと躊躇って傘を差して歩き始めたが、物の数分で防水性のショートブーツの中までぐっしょりと浸水していた。


 九月にしては随分と冷たい秋雨に、爪先からみるみるうちに体温が奪われていく。赤信号で止まっている間もブーツの中で冷え切った足の指を動かしていると、悪天候などものともしない生徒達の元気な挨拶が、俯きがちな雨宮の上半身を起こした。


「雨宮先生、おはようございます」

「おはよう。傘を差してるんだから走らないでね」


 雨宮の顔はだいぶ認知されたようで、登校中の生徒が傘を揺らしながらきさくに声を掛けてくる。校門前の横断歩道に色とりどりの傘が咲いて、大雨の中でも晴天の日と変わらず交通ボランティアが立っていた。


 カッパを着て子供に負けじと大声を這っている大人の中に、今日が当番の室屋の母親姿も紛れている。

 二十年ぶりに再会したときと同じ笑顔で、室屋は横断歩道を渡る子どもたちを見送っていた。


 室屋光輝が痴漢で捕まったことを藍子から聞かされた晩に、ネットで過去十年の間に起きた猥褻事件の記録を遡って検索すると小さい記事ではあったが、まだ残されているのを発見した。


 十年前――室屋光輝は確かに通勤電車の中で、当時二十二歳だった女性に猥褻行為を働いていた。相手の名前こそ伏せられてはいるが、被害者が藍子の知人と見て間違いないだろう。


 それからどのような紆余曲折を経て今に至るかは興味もないが、すれ違う子供とハイタッチを交わす室屋の表情からは何を想っているのか読み取ることは出来ない。


 ただ――すくなくとも実の息子が痴漢で捕まって、三十代にして実家に引き籠もっている現実に悲壮感めいたものは感じない。どこにでもいる平凡な主婦にしか見えなかった。


         ✽


 肩を濡らす雫を払いながら、普段より遅めの時間に到着した職員室の扉を開けた雨宮は、教職員の間に漂う空気が妙に重々しく感じて違和感を感じた。


 窓ガラスには雨脚が強くなる一方の雨風が吹きつけ、より一層教室内を暗く見せている。教師たちは皆一様に浮かない顔をしていた。


「ちょっと、榎本先生」

「なんですか?」


 トイレの後か知らないが、スーツで手を拭いきながら職員室に戻ってきた榎本を呼び止めると、朝から職員室が辛気臭い空気に包まれている理由ワケを尋ねた。


「ああ、雨宮先生はまだ聞いてなかったんですか」


 普段は脳天気な性格をしている榎本のくせに、気まずそうな顔で「ちょっとここでは」と言葉を濁す。


「なに、どういうこと?」

「えっと、場所を変えてもいいですか」


 言われるがままに職員室の隅に立てられているパーテーションの奥に招かれる。古ぼけたソファとテーブルが設置されだけの簡易的な応接セットに腰掛けた榎本は、顔に似合わない溜息を吐くと顔を近づけて、小声で語りだした。


「実は、先ほど神原愛瑠のお母様から学校に連絡がありまして……今朝ICUで愛瑠ちゃんの容態が急変したみたいで、息を引き取ったみたいです」

「神原さんが? そうだったの……」

「それでもう手が付けられないほど怒り狂うかと思ったら、逆に憔悴しきっていてまるで別人みたいでした」

「誰しも我が子が亡くなった直後はそんなもんでしょ」


 もともと回復の見込みがほとんどなかったとはいえ、流石に亡くなったと聞かされると心のなかに後味の悪いものを残す。


 それに、もしも目覚めたら〝ワラシベサマ〟について話を聞いてみたかったが、それは二度と叶わぬ結果となってしまったことが歯痒く思える。


「そういえば、雨宮先生が来るまで大変だったんですよ」

「大変? なにかあったんですか」

「薬師寺先生、神原愛瑠が亡くなったと聞かきに、『私のせいだ』って叫びながら取り乱してたんですよ。確かに担任として思うところはあると思いますけど、そこまで自分を責めつけなくてもとは思いますけどね」 

「全員が全員、榎本先生みたいにお気楽な性格ではないんですよ。まあ、真面目すぎるのも問題ですけどね」


 そういえば、一時限目の授業の準備をしているはずの薬師寺の姿が職員室にはなかった。何をしているのか尋ねると、あまりの落ち込みぶりに授業を任せることは酷だと判断して帰らせたのだという。


 〝私のせい〟と自責の念を感じるのは仕方ないとはいえ、峯岸翼に対するイジメを黙認した時点で教師としての矜持きょうじを放棄したに等しい。

 彼女が今後どういう教師像を描いているのか知る由もないが、せめて現実から目を逸らさない大人になってほしいと願う。


「ああ、そういえば愛瑠ちゃんのお母さんからの言伝で雨宮先生に話があるみたいです」

「彼女が、私と?」

「確かにそう仰ってましたよ。これまでクレームの電話はあっても、話がしたいなんて低姿勢で電話してくるなんて初めてのことじゃないですかね」

「要件は聞いてないんですか」

「五年A組に関わっていない教師には話したくないみたいです。薬師寺先生は頼りにならなくて、雨宮先生にお鉢が回ってきたってとこですかね」


 恐らく初対面での印象は悪かったはず――それを覆すほどの心境の変化でもあったのだろうか。

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