第5話
「検査結果はこれといって問題は見つかりませんでした。軽い打撲を負ってはいますが、全治一週間程度とのことですので通院も必要ないようです」
病院の待合室で雨宮から診断結果を伝えられた
パート先のスーパーを休んで雨宮たちが訪れていた病院に駆けつけた綾香は、自分とさほど年齢が変わらないはずなのに額の生え際には白いものが散見される。
化粧っ気のない顔には長年の苦労が偲ばれるほうれい線の跡が、ノミで削ったように存在を主張していた。
「雨宮先生。この度は娘がご迷惑をおかけしまして申し訳ございません。私が仕事を抜けられない代わりに病院にまで付き添って頂いて」
「いえいえ。むしろお母様にはお仕事を休んでいただく形になってしまい、こちらとしても申し訳なく思っております」
雨宮の言葉に一瞬表情を曇らせ、自嘲気味に微笑を浮かべた。
「今日は客足が良くはなかったので、店長も現場に人が余るより、帰した方が人件費が浮いて助かると喜んでいたので大丈夫です。それより、診察料はおいくらになりますか?」
使い古されて表面の皮が色褪せているショルダーバッグから財布を取り出すと、開口部のファスナーを半分ほど開けて雨宮を窺い見る。
「安心してください。学校内という管理下で起きた事故と認定されるはずなので、自治体に給付金の申請をして頂ければ診察料は全額返還されます」
「そうなんですか。お恥ずかしい話ですが、私みたいなパートは数千円でも家計に響くので、そのような制度があるなら大変助かります」
綾香の言葉には切実な響きが込められていた。頭の中では支払うべき診療費の総額と、自分の時給で何時間分に相当するのかファスナーを開けながら計算していたに違いない。
ふと――二千円の給食費も支払えなかった朱莉の母親が脳裏をよぎった。
パートを掛け持ちして懸命に娘を育てている綾香とは真逆の人間で、およそ勤労意欲というものが欠如していた人だと子供ながらに思っていた。
気まぐれに近所のスナックで働くことはあっても、トラブルを起こすたびに給料か天引きされ、子供を育てられるほどの稼ぎには程遠かったはず。
自宅を訪れると酒に溺れていることもあったし、鬱憤を晴らすために朱莉にきつく当たることもあれば、泣いて縋ることもあった。情緒は不安定で男に媚びる他に生き方を知らなかった可哀想な女性――。
もしも母親が真っ当な生き方をしていれば、朱莉の未来は違ったものになっていたかもしれない。
「それでは失礼します」
過去に飛んでいた意識が綾香の声で現在に呼び戻される。一礼して娘の手を取り離れていく背中を呼び止めた。
✽
平日のランチ時を過ぎた喫茶店は、店内に滞在している客の姿は疎らで空席が目立っていた。
ボックス席に通された雨宮は、運ばれてきたコーヒーを口にしながら居心地悪そうにテーブルに視線を落としている綾香を見た。
頼んだミルクティーには手を付けず、敢えて通路側に座っているところから、無意識のうちにここから立ち去りたいと考えているのかもしれない。
「私からお誘いしたので、ここの代金のことは気になさらないでください」
「はあ……それより、話ってなんでしょうか。あまり翼を一人にしたくはないんですけど」
峯岸翼を自宅に送り届けたのち、雨宮は綾香を連れて駅前の喫茶店に立ち寄っていた。本来なら適当な話題で空気を和ませてからにしたかったが、警戒心を解くどころか高まるばかりなので仕方なく本題を切り出した。
「実は、診察中に翼ちゃんの身体に出来たいくつもの痣が発見されました」
「そ、それは……」
「医師が言うには転落でできたものではなく、比較的古いものだと仰ってました。身体の前と後ろに不自然な形で残っています。なにか心当たりはありませんか?」
「あの、私がやったわけではないんです」
雨宮が何を言いたいのか察した綾香は、身を乗り出して真っ向から否定した。店員がこちらの様子を窺っていることに気がついて座り直すが、赤らんだ顔は感情をコントロール出来ているようには見えなかった。
「雨宮先生は、私が翼を虐待してるとお考えなんですよね」
「その可能性も、残念ですが否定はできません。なので事情を窺いたくこの場を設けさせていただきました」
雨宮も医師から説明されるまで知らなかったが、峯岸翼の上半身には日常生活ではまずつかない痣がいくつも残っていたという。
その大半は薄く消えかかっていたので、数日の間にできたものではないとの見立てだったが、医師は虐待の可能性を疑っていた。
児童福祉法で患者が虐待を受けている恐れがあると判断した場合、医師には児童相談所等に通告する義務が発生する。雨宮は自らの身分を明かしたうえで難色を示す石に頭を下げて通報を保留にしてもらっていた。
「本当にやってないんです。痣のことを仰ってるであれば、私も〝アレ〟を初めて見たときに、本人にどうしたのか聞きました」
「それで、翼さんはなんと仰っていたのですかか?」
「『知らない』の一点張りです。もしかしたら学校でイジメられているんじゃないかって不安になりましたよ」
「学校側に相談はされたんですか?」
「しましたよ。記憶の限りでは四年生の頃まで痣なんて見なかったんですけど、五年になって初めて確認して、流石におかしいと思って担任の薬師寺先生に相談しました」
「薬師寺先生にですか?」
薬師寺に相談した――そのような重大事項を雨宮は一度として聴いた覚えがない。
綾香の話では、時期的に雨宮が緑ヶ丘小学校に赴任する以前の話ではあるが、生徒の親から相談されるような内容をスクールカウンセラーに伝えていないというのは、うっかりで済まさるものではない。
「薬師寺先生はなんと仰っていましたか。覚えてる限りでいいので教えてください」
「ええと、確か『五年A組でイジメは確認できませんでした』と仰ってました。それどころか、『私の気を引くために自傷行為に走ってるのでは』とまで言い放ったんですよ」
自分の言葉に次第にヒートアップしていく綾香は、目に涙を浮かべながら訴えた。
なんて傲慢な、根拠薄弱で決めつけも甚だしい発言なんだろう。
保健室で自分の教え子の怪我を処置していた教師のそれとは到底思えない。
「本来なら学校に乗り込んでも問い質すべきなんでしょうけど、私も仕事で手一杯で精神的に余裕がなくて。それでも翼のことを愛してますし、幸せになってもらいたい一心で身を粉にして働いてるんです」
話は徐々に職場に対する不満に移り変わってゆくなかで、一貫して綾香の発言に嘘偽りの類は感じなかった。
むしろ不可解な言動をみせる薬師寺に疑念ばかりが膨れ上がっていた。
スマートフォンを取り出すと既読無視をしたままの相手に、短く要件をまとめて送信した。
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