第4話

 カウンセリングを終えた生徒が、重荷を一つ降ろしたような晴れやかな笑顔を雨宮に見せる。相談室の扉に手を掛け振り返る声は弾んでいた。


「先生。また来てもいい?」

「ええ。好きな時にいらっしゃい」


 足取り軽やかに相談室を出ていく背中を見送ると、一人となった室内は途端に静寂に包まれた。昼休みに校庭ではしゃぎ回る生徒たちの声が窓ガラスを叩いて、余計に静けさが際立つ。


 神原愛瑠の転落後、好ましいこととは言えないが相談室を訪れる生徒の数は増えていた。事故現場を目撃した教師のなかには、体調不良を理由に欠勤している者もいる。大人でさえそうなのだから、精神的に未熟な児童であればいわずもがな。


 相談に訪れる生徒のなかには、学校生活で抱える悩みや家庭環境の問題を吐き出していく生徒も一定数存在する。その問題一つ一つを親身になって聞き、時には肯定し、無関係にも思える雑談を交えながらカウンセリングを続けているうちに、「もっと早くに悩みを打ち明けていれば良かった」との声が多く聞かれた。


 どうやら前任のスクールカウンセラーは、あまり勤務態度が良好だったとはいえず、資質にもかけていたようで紋切り型のカウンセリングが生徒、保護者、教師と全方位から不興を買っていたらしい。


 結果的に前任のカウンセラーは周囲から信頼を得られないまま退職してしまい、雨宮が緑ヶ丘小学校に赴任するまでの数ヶ月はスクールカウンセラーが不在の期間が続いていた。


 その空白の期間に代役を務めていたのが、養護教諭の遠川潤子とおかわじゅんこで勤続二十年目になるベテランの教師だった。


「私なんて年食っただけのおばさんよ」


 彼女は謙遜こそしていたが、勤続二十年という経歴は伊達ではない。養護教諭とはいわゆる〝保健室の先生〟で、保健室を訪れる生徒の心身の不調を最も近くで発見することができる立場にある教員の一人である。


 スクールカウンセラーに求められる〝臨床心理士〟や、〝公認心理師〟といった国家資格を必要とはしないものの、生徒の心身の健康を支える重要な役割を果たしていた。


 その遠川がノックもなしに相談室にいた雨宮のもとに訪れたのは初めてのことだった。後ろで結んだ白髪交じりの前髪が、ほつれて額に張り付いている。年齢も考えずに廊下を走ったのか、肩で息をしているではないか。


「落ち着いてください。そんなに慌ててどうしたんですか」

「どうしたもこうしたも、また転落事故が起きたんですよ」 

「……またですか?」


 さすがにこの短期間で二人も校舎から転落するのは、異常ではないだろうか――。

 誰が落ちたのか尋ねるより先に、息を整えた遠川が口を開いた。


「転落したのは峯岸翼みねぎしつばささんです」

「峯岸……あの神原愛瑠さんと同じ五年A組の生徒ですよね」

「その峯岸さんがつい先程、二階から転落したんです」


 峯岸翼は雨宮が特に気にかけていた生徒の一人だった。父親は不慮の事故で他界し、現在は母親と二人暮らしをしているという。


 パートを掛け持ちして生計を立てるのがやっとのことで、経済的には困窮していた。成績もクラスで下の方に位置する。親の稼ぎですべて決まるというわけではないが、低収入の家庭で育つ子供の成績がふるわないのは往々にしてよくあることだ。


 性格は内向的で、担任ですら会話を交わすことが難しく、友達と呼べるほど親密な人間は恐らくいないとのことで実際に学校では一人で過ごしていることが殆どだと聞いている。


「それで、峯岸の怪我の具合は?」

「幸いなことに真下が植え込みで、細かい擦り傷を除けば外傷はほとんどなかったようね」

「そうですか。でも、どうして峯岸は転落なんてしたんでしょうか」

「それが本人の説明だと、一人でフザケてたら誤って転落したらしいの。だけどあの子の性格を考えると、その言い分を素直に信じるのは難しいわよね」


 遠川も疑問視するように、事故の原因をと本人が口にしたところで、ヤンチャな男児ならまだしても臆病なほど大人しい性格の峯岸が、果たしてそのような無茶な真似をするとは思えず雨宮も素直に納得することは出来なかった。


 神原愛瑠の転落事故後、峯岸は学校を休みがちで雨宮もまだ彼女と直接対話をしたことはなかったが、今回の事故はそう簡単に結論を出してはいけない気がしてならなかった。


         ✽


 保険室の扉を開けると、五年A組の担任教師である薬師寺麻衣やくしじまいと、脱脂綿を膝に押し当てられて椅子の上で俯いている峯岸翼の姿があった。


 午後は体育の授業なのか、薬師寺はジャージ姿でホイッスルを首から下げている。大学まで陸上部をしたようで、衣服の上からでもわかる体のしなやかさが若さを物語っていた。


「あ、雨宮先生。お忙しい中すみません」


 雨宮が声を掛けると、ハッとした顔で立ち上がり、大袈裟に頭を下げた。年齢は二十五歳と、榎本ほどではないにしても教師としての経験はまだ浅い部類に属する。


 それでも高学年を任されるのは彼女が期待されている証左なのだろうが、期待されている割には少々気にしいというか、生徒に対して腰が低すぎるのではと疑ってしまう瞬間が多々見受けられる。


 彼女が任されている高学年ともなれば、教師を「言うことを聞かなければならない相手」か、それとも「舐めても問題ない相手」か天秤にかけて、その後の態度を一変させることが往々にしてある。


 薬師寺は一言で言ってしまえば、〝生徒が信頼に値するほど肝が据わってない〟というのが、今現在の雨宮の見立てである。


「わざわざ忙しいのに様子を見に来ていただいて、本当に私の至らなさが招いた事故です。遠川先生から話は聞いてると思いますが、どうやらフザケてうちに落ちてしまったみたいで」


 別に事故の原因を聞いてるわけでもないのに、あらかじめ準備をしていたかのように薬師寺は流暢に語りだす。


「怖かったね。他に痛いところはない?」


 椅子に座っている峯岸の視線に合わせてしゃがむと、顔を覗き込まれたことに驚いたのか咄嗟に視線をそらされ、肩まで伸びた髪がバラバラと揺れた。

 

「薬師寺先生。峯岸さんが二階から落下したというのは本当のことですか」

「はい。二階と言っても非常用階段で、手摺てすりに腰掛けて遊んでいたらバランスを崩してそのまま真下に落下したみたいです」

「昼休みに、人気のない非常階段の手摺でですか」


 非常階段は生徒の立ち入りが禁止されている。お転婆とはかけ離れた性格の峯岸が、そのような真似をするとは考えにくいが――。


「それで、お母様は迎えに来られるのかしら」

「事情を説明するためにお母様には連絡をしたんですが、迎えに来るのに時間がかかると言われてしまいまして」

「そうよね。よほど時間の融通が効かない限り、すぐに迎えに来るのは難しいもの。それがシングルマザーならなおさらよ」


 遠川の重みのある一言に雨宮も頷く。   

 怪我や体調不良を理由に迎えに来いといわれても、本心ではすぐに迎えに行きたくても時給換算のパートの立場では現実的に難しい。そんな事を繰り返してしまえば、働き続けることさえ難しくなる。


「遠川先生の言い分はごとっともですが、だからといって一人で自宅に帰らすわけにもいきません。万が一のことも考えられるので一度病院で診てもらう必要があります」


 外傷が少なくとも目に見えない損傷を負っている可能性は捨てきれず、午後の予定が空いていた雨宮は自分が病院に連れていくと申し出ると薬師寺が口を挟んできた。


「なにも、スクールカウンセラーの雨宮先生がそこまでしなくても」

「構いませんよ。スクールカウンセラーだからこそ、教師の皆様と違って自由に動けますし、この辺りは土地勘がありますから任せてください」

「あら、雨宮先生ってもしかして緑ヶ丘小学校出身なの?」

「ええ、遠い昔のことですけどね」


 遠い過去のようで、手を伸ばせば届きそうな位置に、今も朱莉の笑顔が今も浮かんでいる。


「雨宮先生がそう仰ってくれるのなら、私から先生方に事情は伝えておくのでお願いできるかしら。峯岸さんもそれでいい?」


 置物のように黙っていた峯岸は、遠川に声を掛けられても相変わらず黙ったままで頷くだけだった。

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