第6話
普段は人が立ち寄らない準備室に足を踏み入れると、窓ガラスから差し込む陽光が宙を舞う
以前は子供たちに使われていた机と椅子が、用済みとなって部屋の隅に積まれている。指先でなぞる机上には、イタズラで掘られた主なき名前が残されている。
「ここなら誰も来ないでしょう。不都合なことも、今なら私だけしか聞いてませんし」
窓を開けると、淀んでいた空気が踊りだして屋外へと逃げ出していく。まだ秋の気配は程遠く、湿り気を帯びた空気が入れ替わるように室内に流れ込むと黙っていたついてきた薬師寺が、耐えきれなくなったように口を開いた。
「雨宮先生。いったいこんな場所まで呼び出して、なんのおつもりですか」
「なんのおつもりでって、呼び出された理由くらいお気づきでしょう」
「さあ。検討もつきません」
雨宮と一定の距離を開けて両腕を組みながら立っている薬師寺は、余裕を見せようとして下手な笑顔を浮かべていた。二人きりで話があると伝えたときから、警戒しきりで目が泳ぎっぱなしだったとも知らず。
「では率直に伺います。峯岸さんが一人で転落したという話は、おそらく薬師寺先生の嘘ですよね」
「だから、あの事故は峯岸さんの注意不足が招いたことだとお話したとおりです」
「ふざけて転落するほど彼女がお転婆な性格だとは到底思えません」
「そんなこと……理由にはならないとおもいますが」
頑なに認めようとしない薬師寺に、別の角度から質問をぶつけてみた。
「薬師寺先生、転落事故とは別に、なにか重要な事を私に隠してませんか?」
「な、なんですか、隠してることなんてありませんよ」
化膿した擦り傷をなぞられたような、不快感と痛みを堪える顔で視線をそらした。
「峯岸翼の身体に複数の痣ができていることはご存知ですか」
「さあ……知りません」
「おかしいですね。綾香さんから相談の電話があったはずですよね」
「そうだ。心配するようなことはなにもないと伝えたんです」
「責任を翼ちゃんが自分でやったことじゃないかと、綾香さんに責任を押し付けたの間違いでは」
淡々と逃げ道を塞いでいく。自分の言葉が楔となって袋小路に追い詰めると、懐からICレコーダーを取り出して
再生ボタンを押す――。
「――君達は見ていたんだね。五年A組の峯岸翼さんが、非常階段から落とされるところを」
「はい。昼休みにかくれんぼをしてるとき、本当はだめだって知ってたんですけど非常階段に隠れようとしたんです。そこで……複数の生徒に押された勢いで……」
申し訳無さそうな生徒の声に、薬師寺の顔が強張る。一歩一歩近付くと、同じ距離だけ後退りしていく。
「榎本先生に頼んで、あの日の昼休みに峯岸さんを見た生徒がいないか探りを入れてもらいました。こんなときに生徒に人気のある先生は使い勝手がよくて助かります」
無意識のうちに逃げ場をなくし、壁際に追い込まれると唇を噛みしめて雨宮を睨めつけている。
「駄目じゃないですか、教職者たる者が率先して臭いものに蓋をしては。知っていたんでしょ? だって、その現場を目撃してたんですから」
今にも泣き出しそうな――赤らんだ瞳の奥には、秘密を知られてしまった恐怖と屈辱感が窺える。その愛おしさすら感じる迂闊さに背筋がゾクリと震えた。
――おっと、危ない危ない。
無意識のうちに薬師寺の顔に伸ばしかけていた手を、両肩に乗せて顔を近づけた。身体が密着するほど距離を詰めると、ジャージの襟元から教師には似つかわしくないムスクの香りが僅かに漂っていた。
「隠蔽は今回に限った話じゃないんでしょうね。自分のクラスからイジメなんて出たら――そうやって保身に走ってどれだけの陰惨な行為を見逃してきたのか。まだ聞きたいことは山程ありますから」
毒を流し込むように――耳朶に囁くと膝から崩れ落ちてチャイムが鳴った。
言葉に詰まっていた薬師寺は、もう逃げ切れないと観念したのか、両手で顔を覆い隠すとせきを切ったように泣き出した。
✽
「あら、それじゃあ本当に薬師寺先生がイジメを黙認していっていうの?」
放課後に保健室を訪れた雨宮は、薬師寺本人から聞いた話をそっくりそのまま遠川に説明した。事務作業もそこそこにボールペンを置くと、椅子のスプリングを軋ませるほど立派な臀部をぐるりと回転させ、不愉快な音を鳴らす。
「それだけでなく、イジメの首謀者の名前もあげました」
「ちょっと待ってちょうだい。この一件はすぐにでも共有しないといけないんじゃない?」
「そうですね。本来であれば教師間で共有すべき課題だとは思います。本来はね」
「なにか含みのある言い方が気になるけど」
こちらの真意を探る眼差しに、嘘はつけないなと正直に打ち明けることにした。少なくとも遠川は緑ヶ丘小学校の良心であることに間違いはないから。
「そもそもこの一件は、薬師寺先生を含めた私達三人以外に知らせるつもりはありません」
「何故? それだと五年A組の状況は何も改善されないのでは」
遠川の懸念はごもっともだが、それは教育現場が健全な運営を行っている場合のみ通用する正論でしかなく、残念ながら現在の緑ヶ丘小学校の場合は、馬鹿正直に伝えたところで揉み消されるか、余計に話が拗れる可能性が高いと踏んでいる。
「連日の職朝会議や定例会議を聞いている限り、大多数の教師が面倒事には関与したくなさそうな言動をみせていました。これでは情報を共有したところで抜本的な解決は望めません。むしろ、神原愛瑠と同様に転落事故の原因をうやむやにされかねないと判断したからです」
「うーん。そう言われると、反論できないところが悲しいわね。悲しいことだけど、現場には事なかれ主義が染み付いてるのかもしれない」
遠川は腕を組んでしばらく考え込んだのち、それが教師としては認められない選択肢であるにも関わらず、「わかりました」と理解を示してくれた。
「だけど、どうするつもり? 学校側に内緒にしてる限り、できることは限られるんじゃないの」
「心配には及びません。明日にはイジメの加害者である
緑ヶ丘小学校の教師なら、なるべく関わり合いになりたくないというのが本音の生徒の名を口にすると、勤続二十年のベテランである遠川も顔を
「あの子の親御さんの相手をするのは、なかなか骨が折れるわよ。こう言ってはなんだけど、緑ヶ丘小学校が抱える〝二大モンスターペアレント〟で有名だからね」
「承知してます。だからこそ私が行かなくてはいけないんです。というより、私以上に近藤家のことを知ってる人間はいませんから」
雨宮が過去を思い出しながら口にすると、会話を遮るノックの音がして扉が開かれた。
「あのー遠川先生いらっしゃいますか?」
「あらあら、榎本先生じゃない。どうなさったんですか?」
声をかけられた榎本は泣きじゃくる女子児童の肩を支えて、困り顔で立っていた。
「放課後にうちのクラスの生徒が鉄棒で遊んでたんですけど、逆上がりしたさいに落っこちてしまったようでして」
「あらあら、頭にたんこぶができちゃってるわ。痛かったでしょう」
榎本の来訪で、保健室はにわかに騒がしくなり居場所がなくなったような気がして席を立った。
「それじゃあ、私はこれで」
軽く会釈をして保健室をあとにする。廊下を歩いていると――L字の曲がり角に赤いランドセルを背負った児童が消えた。
――今のは、朱莉?
一瞬のことだが、ランドセルに吊るされたキーホールダーが静止画のように脳裏に焼き付いている。それは、雨宮が朱莉の誕生日にプレゼントしたものと同じデザインだった。
次の瞬間、駆けだしていた雨宮は消えた背中を追いかけていた。曲がり角の先には赤いランドセルを背負った少女が歩いている。
その肩に手を置くと、驚いた顔で振り返ったのは朱莉と似ても似つかない見知らぬ生徒だった。驚いた顔で雨宮を見ていた。
「あ、ごめんなさい」
慌てて手を離すと、駆け足で雨宮のもとから離れていった。いよいよ幻を見るようになってしまったか、と苦笑いがこぼれる。緑ヶ丘小学校に赴任したからというもの、日に日に過去の記憶に侵食されるように朱莉のことで頭がいっぱいになっていた。
もう一度校舎をぐるりと巡ってみたが、赤いランドセルを見つけることは二度と無かった。
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