第7話

 アスファルトには正午まで断続的に降っていた雨が水溜りを残していた。雲の切れ間から顔を覗かせる太陽が足元で輝いている。


 原付を降りてヘルメットを外した雨宮は、うなじに感じる蒸し暑さにうんざりしながら空を見上げた。


 今朝の天気予報で発表された三ヶ月予報では、師走まで例年より気温が高いとのことだった。入道雲が沸き立つ空には秋の訪れを知らないセミの鳴き声と、赤いトンボが不思議な共演をしている。


 雨宮は土曜日を利用して、再開発から取り残された区域に建つ板金修理工場を訪れていた。野良猫がブロック塀の上を歩いていて、昭和に建てられた古い家屋が今も居心地悪そうに肩を寄せ合っている。


 その中で細々と経営している近藤モーターも、もはや時代に取り残された化石となりつつあった。店名が記された看板は経年劣化で塗料が剥げ落ち、会社名もすぐには判別できない。まるで経営状態を物語るように斜めに傾いでいる。


「失礼します」


 静まり返った作業場に声を掛けるも、反応はない。工場内に足を踏み入れるとそこかしこに工具類が散乱していたが、肝心な従業員の姿は一人も見えない。


 昔はそれなりに繁盛していたと記憶しているが、修理を請け負っている車は休日ににも関わらず一台も見受けられず、奥の事務所の扉が開きっぱなしで中からテレビの音が漏れていた。


「いやだ。もしかして、典子?」


 沈殿した記憶をさらいがら眺めていると、自転車のブレーキ音に鼓膜を叩かれて雨宮を名前を呼ぶ声がする方へ顔を向けた。自転車の前後に子供を乗せた女性が驚いた顔でスタンドを立てて、雨宮のことを口を開けながら見つめている。


「ああ、藍子か。すぐに気づかなかった」

「なによその言い草は。でも、こんなに変わってたらわかりっこないか」


 思い出すまでに時間要するほど、かつて同級生だった井出藍子いであいこの容姿は、時の流れの残酷さを如実に物語っていた。


 前カゴには近所の激安スーパーのレジ袋が、無理やり押し込まれている。クラスで一番ませていて、将来はお金持ちと結婚すんだと常々口にしていた少女の面影は、二十年間を経て微塵も残っていなかった。


「あんたが緑ヶ丘小で働いてるって話を聞いたときは驚いたよ。それにスタイルだって全然三十代には見えないし、普通はこう、太ったりするもんじゃない?」

「そうかな。特に変わったことはしてないけど」


 同世代の女性から体型について羨ましがられる機会が多いが、特別ダイエットをしてるわけでもないし、せいぜい自宅から学校まで徒歩で通勤してるくらいだ。


 遺伝的に付き太りにくいんじゃないかと答えると、求めていた答えと違うのか、はたまた自慢に聴こえたのか、面白くなさそうに鼻を鳴らすと買い物袋を手に先を歩いた。ギャーギャーと聞き分けの悪そうな子供たちが、雨宮を警戒するように藍子にくっついて歩いていた。


「汚いけど上がってちょうだい」


 工場の裏手にある自宅に案内されると、年季を感じさせる急勾配の階段や、天井に滲む雨漏りのシミがところどころに目立っていた。廊下を踏みしめる度に軋む床の音が、築年数を感じさせる。


 キッチンに荷物をおろした藍子は、深々とため息を吐いた。きっと癖になっているのだろう――辛気臭い空気が家中に漂っている気がして、あまり長居はしたくないとタンスに貼られたシールを見ながら思った。


「ほんと嫌になるわ。お義父さんが遺してくれた一軒家とはいえ、こうもボロいとね。旦那の稼ぎは少ないし引っ越す余裕もないし、マイホームなんて夢のまた夢。駅前のタワーマンションに住んでる連中が羨ましいったらありゃしないね」


 母親の溜息をよそに、子供たちはヒーローごっこに興じながら家の中を駆けずり回っていた。今にも穴が空きやしないか心配になるほど、廊下からギシギシと音が響く。


「そういえば、誠也は仕事じゃないの?」


 工場に姿が見えなかった近藤誠也の居場所を尋ねると、。


「ああ、今日みたいに仕事がない日はパチンコに出かけるの。ただでさえ三人兄弟で金ばかりかかるってのに、いったいなにを考えているのかね」


 買ってきたばかりの食品を冷蔵庫にぎゅうぎゅうに押し込むと、荒々しく扉を閉めた。もともと仲が良い間柄でもなかったので、小学校当時の会話はすぐに尽きてしまう。


 そういえば、と大根をシンクの上に置きながら藍子は振り向いた。


「典子って結婚してるの?」

「ううん、私は今も独身。もともと恋愛が向いてないみたい」

「いいわねえ、独身は自由で。私も焦って結婚なんてせずに、適当に遊んで暮らしたかったわ」


 なんだか全ての会話が不満と愚痴に帰結する気がし、座っているように勧められたソファで大人しく待機をしていた。ところが約束の時間を過ぎても誠也は帰ってこない。三十分ほどが過ぎてようやく帰宅した。


「あれ? もう約束の時間だったか」

「お邪魔しています。しっかりと待たされました」

「わりいわりい、台から離れられなくてよ」


 近藤誠也こんどうせいやは特に悪びれる様子もなくキッチンへ向かうと、缶ビールを手に片手に戻ってきた。


「お前も一緒に飲むか」

「結構です。原付で来てるんで」

「ケッ、相変わらずお固いな。学級委員長さまは」


 表面のソファに体重を預けると、プルタブを開けて一気にあおった。本人は隠しているつもりだろうが、雨宮の足元から、人並みにはあると認識している胸元まで気色悪い視線を行き来させていた。


 小学生の頃に成人男性と比べて遜色ない図体だった誠也は、今ではプロレスラーのような分厚い肉体にパンチパーマと堅気カタギの一般市民には見えない風体に変貌を遂げている。

 一介の教師では、ただ誠也の前で座っているだけで冷や汗を流してもおかしくはない。


 犬の絵柄がプリントされたセットアップの胸ポケットから、煙草を取り出しフィルターを咥えると藍子に頭を叩かれ、無言で換気扇の下に移動するように命じられた。


「ったく、煙草も好きに吸えねえなんて世も末だな」


 緑ヶ丘小学校を卒業後に二人とは完全に音信が途絶えていたが、近藤誠也は小学生にして、近隣中学の不良にまで名を知られていた悪ガキだった。


 その誠也に当時好意を寄せていた藍子が、今では完全に旦那を尻に敷いている光景はおかしくもあり、牙を抜かれた猛獣の末路を見せつけられているようで哀れにすら思える。


 二人がいかにして結婚するに至ったのか興味がないといえば嘘になるが、そんなことを聞きに来たわけではない。


「にしても、わざわざ話があるなんて連絡してきてどういうつもりだよ。今更〝過去〟の話を蒸し返しやがって」


 キッチンにいる藍子に聴こえないように、小声で話す誠也の眼はこちらの出方を窺っていた。


「別に本気で誰かに話すつもりはなかったの。ただ、私の話を聞いてほしく〝昔〟の話をちらつかせただけよ」

「なんつう女だよ。俺よりよっぽどタチが悪いじゃねえか」

「失礼ね。私は今も昔も真面目に生きてるわよ」


 僅かに残っていたビールを飲み干しすと、数多の人間をいたぶってきた拳が空き缶握りつぶした。


「あれはとっくに時効だろ」

「そうね。人が死んでるわけでもないし、法であなたが裁かれることはない。けれど、近所の目はどうかしら。閑古鳥が鳴いてる工場に支障はないかしら」


 誠也が恐れているのは、雨宮に握られている秘密を暴露されることだった。


 あれは小学六年生の頃――学習塾から帰宅途中の雨宮は、自転車を漕いでいるとマスクをして、周囲を警戒している様子の誠也を見かけた。


 背中にバックパックを背負い、夜間には近付くなと学校から注意されていた公園に姿を消した。その公園は当時ホームレスが住み着いていることで知られていて、緑ヶ丘小学校の児童が声をかけられる事案も発生していた。


 そのまま通り過ぎようとした雨宮だったが、妙な胸騒ぎがして後をつけると、ホームレスの居住区と化していた一角に誠也の背中を見つけた。


 就寝中なのかしんと静まり返った園内で、鞄の中を漁っていた誠也はペットボトルを取り出すと、辺り一面に中の液体をぶち撒けて手にしていたライターで火を点けたのだ。


 翌日には公園内で不審火が発生したことが噂となっていたが、巻き込まれたのがホームレスだからか、人々の記憶にも残らず警察の捜査も誠也には辿り着くことはなかった。


「まさか、雨宮があの現場を目撃してるなんて思わなかった。何が目的だよ。金か? 見ての通り売上は右肩下がりだからな、脅されたって出せる金なんてないが」


 自虐的にわらう誠也に、金なんかいらないと告げると理解できないといった顔で雨宮を見た。もしも逆の立場なら、間違いなくこの男は強請るに違いない。

 

「なになに、二人して何の話をしているの」


 藍子が誠也の隣に腰を下ろす。


「一虎くんはどこに」

「一虎? 二階の自分の部屋でゲームでもしてるんじゃない」

「そうですか。なら呼んできてもらえますか」


 連れてこられた一虎は、雨宮を見るなりバツの悪そうな顔で誠也の隣に腰掛ける。    

 ようやく本題を切り出す準備が整った。

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