第10話
「私ね、一緒に住んでる男の人に、身体を触られたりしてるの」
朱莉から自宅に帰りたがらない理由を明かされた瞬間――本能が意味を理解することを拒否するかのように全身が粟立った。
その言葉の意味を真に理解していたわけではないが、腹の底から湧き上がる、行き場のない嫌悪感で手にしていた雑巾を強く握りしめていた。
「最初は仲良くしたいだけなのかと思った。だけど、そうじゃないって思うようになったのは、お風呂に入ってると必ず後から入ってきて、『もう洗った』って言ってるのに必ず身体を洗い直すの。それも、素手で全身を」
血の繋がっていない男性に素手で身体洗われる――自分に置き換えて考えてみる。逃げ場のない密室で、力で敵わない成人男性にされるがまま全身を弄られる行為は、その異常さと悍ましさに吐き気すら催す。
母親に伝えたのか尋ねると、朱莉は俯いたまま首を横に振っていた。
「お母さんは、一緒に住んでる男の人のことがとても好きみたいで……私が勇気を振り絞って正直に打ち明けたら、〝お前は色魔だ〟って怒られた。色魔なんて言葉知らなかったから、意味がわからなくて調べたけど」
「なに、その言い方。実の娘が酷い目にあってるっていうのに、お母さんは何もしてくれないの?」
「お母さんは昔から男の人に裏切られ続けてきて、ようやく運命の人に巡り会えたって夢見る少女みたいに口にしてるの。たぶん、わたしのことなんて邪魔なだけなんだよ」
朱莉の口調には、母親に対する憐憫と、歪な関係に雁字搦めに囚われている自分に対する自嘲が、含まれているように感じてならなかった。
朱莉の母親は実の娘を助けるどころか、自宅に転がり込んでいるいわゆる〝ヒモ男〟を娘に取られやしないか、それだけを心配している。
虐待を受けている朱莉を〝女性〟としてライバル視し、家ではろくに口も利かないという。その間にヒモ男からの干渉は深刻さを増す一方で、最近は風呂場だけにとどまらず、母親が見ていない隙を狙って執拗に身体を撫で回してきたり、添い寝と称して布団の中に潜り込んでくると硬くなった下半身を押し当ててきたりするという。
男性の体がどうなってるなんて知らないけれど、それはとても許されざる行為であることは理解できる。
昨晩は脱がされそうにまでなったと、震える声で語っているのを聞いて、遅かれ早かれ取り返しがつかない事件が起こるのでは、と危惧した。
もしも朱莉に声をかけなければ、朱莉が抱える闇を覗くこともなかったし、一生知ることもなかったに違いない。
――私が見て見ぬふりをしたら、多分彼女は壊れてしまう。
これまで他人と距離を取って生きてきた雨宮が、初めてなにかしてやれることはないか考えた。そのとき、これまで同級生に抱いたことのない感情が、身体の
それは落ち葉の下で燻る種火のようで、無意識に伸ばした手が朱莉の頬に触れると一気に燃え上がり、下腹部が熱を帯びていく。
「あのさ、今日良かったらうちに泊まりに来ない?」
脈絡のない誘いに、顔を上げた朱莉はきょとんした様子で、頭の上にクエスチョンマークを浮かべていた。
「もし、あなたが良かったらだけど」
「えっと……。初めてクラスメイトに誘われたからビックリしちゃって……」
「私も初めて他人を誘ったから、少し緊張してる」
「そうなの? 雨宮さんって落ち着いているし、転校してきたばかりなのに学級委員を立派にこなしてるから、私とは住む世界が違う人のかと思ってた」
「なにそれ。私はただ今の暮らしに順応しただけだよ。もしなんでもできるふうに見えてるのなら、それは波風立たせず生きていく術を身につけてるからだと思う」
何度擦っても、落書きが完全に落ちない机をキレイに磨き上げることは諦めた。予備の机は準備室にあることだし、それとなく担任に事情を説明して変えてもらおうと、雑巾をバケツに放り投げながらランドセルを背負うと片手を差し出した。
「で、うちに泊まりに来る?」
「……じゃあ、迷惑でなければ」
「決定だね。それじゃあ行こっか、朱莉」
差し出した手を恐る恐る握り返した朱莉の手は、季節外れの雪のように冷たかった。その温度を肌で感じながら、初めて名前を口にすると教室を覗いた教師から、早く帰るようにと促される。
いつの間にか下校時間を迎えていた事に気づいた二人は、互いに見合うとクスクス笑いあった。
✽
食卓に並ぶ夕食は、いつもより五割増で豪勢だった気がする。普段は和食中心で、子供には物足りない夕食のラインナップが今日に限って言えば、見慣れぬ洋食ばかり皿に盛られて輝いて見える。
ハンバーグは雨宮が好き食べ物で、その脇に添えられている海老フライは朱莉の好物。揚げたてでさくさくの衣を、使い慣れてなさそうなナイフとフォークで小さな口で食む姿を、母は自分の子供を見るような慈愛を込めて眼差しで見つめておかわりを勧めていた。
「あ、あの……頂きます」
雨宮のパジャマに袖を通していた朱莉の髪は、まだ完全に乾ききっておらずしっとりと濡れている。朱莉のほうが痩せていたのでサイズが少々ぶかぶかなのが気になった。
「お母さん。朱莉を太らせるつもりなの?」
「なに言ってるの。あなた達くらいの年代の子が太ったなんて気にするのは、十年早いわよ。それに、朱莉ちゃんは少し痩せ過ぎなくらいだもの」
母に勧められるがままに海老をおかわりしていた朱莉は、既に十尾は食べ終えていた。母が言う通り、一緒にお風呂に入ったときに
点けっぱなしにしていたテレビで、芸人が落とし穴に落とされて笑いを取っている場面が映された途端、母はいつものように渋い顔でチャンネルを変える。サバンナで逞しく生きるライオンが画面いっぱいに映し出されると、母は頬杖をつきながら顔をほころばせていた。
「突然友達を連れてきたときは、天地がひっくり返ったのかと思うくらいにビックリしたわ。まさか典子が友達を連れてくるなんてね」
「お母さんいつも言ってたもんね。たまには友達の一人くらい連れてきたらどうなのって」
「そうね。だから張り切って作っちゃった」
帰宅した雨宮を玄関まで迎えに来た母は、隣に立っている朱莉を見てわかりやすく動きを止めた。
「急だけど友達を泊めてもいい?」
居心地悪そうに立っている朱莉を紹介すると、「大変大変」と独り言を呟きながら財布を手に、再び買い物に出かけて今に至る。仕事中の父親の留守電に、我が家に娘の友達が泊まりに来たとメッセージを残すほどの浮かれようだった。
夕食を食べ終えると、近所で美味しいと評判のケーキ屋さんで買ってきてくれたケーキを二人でぺろりと平らげ、雨宮の部屋でペン太の話で盛り上がった。
はじめて同好の士と出会えた嬉しさもあり、何話のどのシーンが良かっただとか、使わずに取っておいたペン太の消しゴムや筆箱を見せたりして、ひとしきり盛り上がったあとに翌日提出予定の宿題をしていると、朱莉の鉛筆がピタリと止まった。
「どうしたの?」
「いいよね、雨宮さんのお母さんは優しくて。それに比べて、なんで私のお母さんは、私のことをまともに見てくれないんだろう」
「それは、朱莉に問題があるわけじゃないよ。自分のせいにするのは止めたほうがいい。考えたところで、問題は親にあるんだから」
母も朱莉が着ていたトレーナーを見て家庭環境の劣悪さを感じ取っていたらしく、先に浴室に入った隙を見て、いつでも連れてきていいからと許可を出してくれた。
「朱莉ちゃんのママのことだけど、正直に言うと、電話で一晩朱莉ちゃんを預かるって伝えた時に娘に対して関心がないように思ったの」
流石に家族に無断で泊まらせるわけにもいかず、朱莉に変って母が田村家に連絡した際に、朱莉の母親は特に関心もなさそうに受け答えをしていたという。
――ああそうですか。ご迷惑をおかけします。
本心は知る由はない。これは勝手な邪推でしかないが、朱莉がいないことでヒモ男と二人きりになれることが、母親にとって好都合だったのかもしれない。
今頃なにをしているのか――考えるだけで夕飯のハンバーグが食道を競り上がってくる。
朱莉がヒモ男から虐待を受けている事実を母に伝えることもできず、その日の夜は悶々とする気持ちを抱えながら夜が更けていった――。
時計の針が十二時をまたいでも、朱莉の言葉が頭の中で消化しきれずに寝れなかった雨宮は、隣で寝息を立てている綺麗な顔を覗き込んだ。
「朱莉を救えるのは、私しかいない」
持て余すこの気持ちの正体を知ったとき――自分が自分でなくなるような気がして、結局朝まで一睡も出来なかった。
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