第9話

 雨宮の父親はいわゆる転勤族だった。

 小学四年生になるまでは二年に一回の頻度で、北は北海道、南は九州と全国を飛び回る生活を余儀なくされていた。


 もともと一人でも孤独を感じない性格であったがゆえに、転校自体はさほど苦ではなかった。むしろ積極的に人と関わることが面倒で、転校生に興味を持って話しかけてくるクラスメイトにはわざと冷たい態度を取ったりしてものだから、一週間もすれば関心も失せて自然と近寄ってくることもなくなる。


 雨宮にとって新しい土地で暮らす二年間とは、次の引っ越しのための準備期間としてしか認識していなかったし、当時の記憶の大半はキレイに忘れ去られている。

   

 過去の記憶は新たな土地の生活での暮らしに上書きされ、クラスメイトや少なからずお世話になったはずの担任教師の顔も、今ではほとんど思い出すことはない。


 その時々感じていたはずの季節感や空気といった欠片ピースが、海馬の中から取り除かれてしまったような虚無感を、成長とともに抱えるようになる。


 自分の記憶にも、他人の記憶にも残らない生活は、文字通り根無し草のような日々の繰り返しで、根を張る前に引っこ抜かれ、新たに植えられても同じことが延々と続くのなら、いつか私という存在は数秒で書き換えられてしまう短期記憶のように、誰の記憶にも残らないのではないか――。


 恐れとは異なる、漠然としたモヤモヤに長らく支配されてきた。さして仲が良くもなかったのに、儀礼的に執り行われる〝別れの会〟で涙を流すを級友が、愚かしくもあり羨ましくさえ感じた。


 自分はここにいる――そしてそれは決して揺るがない事実だと無意識のうちに信じられることが、とても眩しく思えていつからか、心の拠り所ががほしいと願い始めた。


 そして、ようやく見つけた私の人生で後に先にも唯一の例外――田村朱莉と過ごした約一年間の記憶は、終生消えることはない。


         ✽


 朱莉の第一印象は、控えめに言ってもプラスの印象を与える言葉は出てこない。

 四年生の八月。夏休みが明けた直後の緑ヶ丘小学校に転校してきた雨宮は、担任教師の注意も聞かず騒々しかった教室を眺めつつ、いつものように定型文の自己紹介をしていると一人の少女で視線が止まった。


 ――ずいぶんと辛気臭いやつね。


 ひたすら謝り続けるように、背中を曲げた少女が机に向かって俯き固まっていた。

 おしゃれに気を遣う女子が多い中、一人だけ時代遅れのキャラクターがプリントされたトレーナーを着ていて、どれだけ着古しているのか色褪せていたし、襟や袖のゴムはよれよれ。


「おい、なんとかいえよ。娼婦の子」


 後ろの席に座っていた男子は――のちに近藤誠也と知る――朱莉の後頭部に丸めた紙をぶつけながら、ゲラゲラと笑わっている。担任も普段から見慣れているのか、注意をする素振りも見せず無視を決め込んでいた。


 五年A組は有り体に言えば、〝学級崩壊〟を起こしていクラスで、その光景を眺めながら――ああ、このクラスにもイジメはあるんだな、と思う程度で深入りするつもりはさらさらなかった。


 イジメられる側にも少なからず問題があると当時は思っていたし、関わることでメリットなんて何一つない。


 座るように言われたのは朱莉の横で、ランドセルを置いて隣に腰掛けるも雨宮のほうを一瞥もせず、俯いたまま押し黙って聴くに耐えない罵声を浴びせられていた。


 別に口を利くつもりもなかったし、ただ席が隣なだけの人間だと気にもとめなかったが、ある日の放課後にその認識は少しずつ変わっていく――。


「起立、気をつけ、礼」


 雨宮の掛け声に合わせて、ガタガタと椅子から立ち上がる音がする。ホームルームが終わるのも待たずに廊下に一目散に駆け出していく男子に続いて、女子が各々グループに分かれながら帰宅の途に就く。


 チョークで真っ白に汚れた黒板を消していた雨宮に、担任が申し訳無そうに話しかけてきた。


「転校したてなのに学級委員になってくれてありがとな」

「いえ、くじ引きの結果なら仕方ないですし」

「雨宮は素直で助かるよ。それじゃ、あとはよろしく頼むな」


 心にもない慰めをチョークの跡と一緒にし消しながら、教室から出ていく担任が扉を閉める音を最後にしんと静まり返る。


 二学期を迎え、新しく学級委員を決める際に誰も率先してやりたがらなかったため、くじ引きで決めた結果ハズレくじを引いたのが雨宮だった。


 黒板を消し終えて自分もさっさと帰ろうと振り返ると、誰もいないと思っていた教室にもう一人――席から一歩も離れずに座っていた朱莉が、一日中そうしていたように机を見下ろしていた。


 机にはマジックペンで卑猥な単語や罵る言葉が所狭しと書かている。雨宮が転校してきた日から数えて、朱莉がイジメられない日は一日もなかった。


 どの学校でも陰湿なイジメは存在したし、雨宮自身も一時的に標的になったことはあるが、朱莉が受けていたイジメはより酷かった。にも関わらず、彼女はされるがまま、嵐が過ぎるのをじっと待って心を殺しているように思えた。


「あなた、生きてて辛くないの?」


 気がつくと朱莉の前に立っていた私は、自分でもわからぬまま話しかけていた。じっと俯いていた朱莉の顔がはじめて雨宮を見上げると、絶望に打ちひしがれる顔があらわになる。


 もとの顔立ちがなまじ整っていたからか、薄幸の美少女といった印象を雨宮に与えた。


「私に、話しかけてるの?」

「他に誰がいるのよ。もう全員帰ってるわよ」

「あ、そっか……ごめんなさい。えっと、辛いけど、私にはペン太がいるから」


 初めて聞いた朱莉の声は想像よりよく通る声で、ポケットから取り出してまじまじと見つめていたのは、雨宮が密かに気に入っていたキャラクターのキーホルダーだった。


「ペン太って、日曜に放送してるアニメのキャラクターでしょ」

「ペンタのこと、知ってるの?」

「あ、うん。少しね」


 雨宮の返事を聞いた朱莉の瞳に、初めて同志をつけたような期待の色が浮かんでいた。思わぬ食いつきに後退ると、今まで誰にも明かしたことのない趣味をカミングアウトしてしまったみたいで恥ずかしくなり、すぐに口にしてしまったことを後悔した。


 ペン太は当時、子供に人気のあったアニメに出てくるペンギンのキャラクターで、見た目は可愛らしいのだがとにかく卑屈な性格で、自虐的な言動が目立つキャラクターだった。


 よく言えばイジられ役で、悪く言えば適当な扱いを受ける不遇のキャラとして知られていたが、そんな性格だったから当然人気もなかったので、ペン太が好きだと公言する人をお目にかかったことがなかった。


「そうなんだ。雨宮さんがペン太のこと知ってるなんて、思わなかった」

「ペン太って可愛いじゃん。不器用なところが」

「うん。私もそう思う」


 そう言って微笑む顔に朱が差すと、不意に雨宮の胸が途端に苦しくなった。理由はわからなかったが、ちょっと待っててと教室を離れると水が入ったバケツと雑巾を手に戻り、机の上の主張が強い文字を消し始めた。


「そんな、わたしのことなんて気にしなくていいよ……」

「消さないと、あなた帰れないでしょ。私これでも学級委員だから、困るんだよね」

「……ごめんなさい」


 言い方がキツかったか――再び殻に閉じこもってうつむいた朱莉に、濡らした雑巾を絞りながら気になっていたことを尋ねた。


「あのさ、どうしていつも家に帰ろうとしないの?」


 いつもホームルームが終わったあとに、帰宅しないで校舎に留まる朱莉の姿を雨宮は度々目撃していた。図書館にいることもあれば、人気のない階段の踊り場にいたりと日によってバラバラだった。


「……もう知ってると思うけど、うちのお母さんね、変な仕事してるの」

「ああ、なんか男子が口にしてるね。〝娼婦の子〟だって。それがどうしたの」


 朱莉をいじめていたグループの中心には、近藤誠也という問題児が存在した。体格は成人男性に近く、よく下級生をからかって嘲り笑うクソみたいな男だった。


 その近藤が馬鹿の一つ覚えのように、朱莉に向かって娼婦の子だと罵倒しているのを聞いて、娼婦という意味は知らなかった雨宮は辞書で調べてなんとなくではあるが、彼女の母親が世間で言う一般的な仕事に就いていないことを理解した。


「私の家にはね、お父さんがいないの。その代わり、知らない男の人が長い時は二月ぐらい、短い時は一週間くらい一緒に生活してるの」

「それは、お母さんの彼氏ってこと?」

「わかんない。だけど今度の男の人のことをママは気に入っていて、『パパはほしい?』ってしきりに聞いてきて……」

「それがどうしたの。お父さんになるならいいんじゃない」

「わたし……変なことされてるの」

「変なこと?」


 なかなか消えない文字に悪戦苦闘をしていると、口を戦慄かせながら朱莉は抱えていた闇を語りだした。


 

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