第2話

 雨宮の目の前に生徒の姿が、幼い頃に興味本位でもてあそんで殺してしまった女郎蜘蛛と重なって見えた。


 脚から地面に落下した衝撃で、脛の辺りから開放骨折をしている。関節の可動域の限界を超えて、悪趣味な操り人形マリオネットを思わせる形で四肢を投げ出し、地面に突っ伏している。


 現場を目撃してしまった生徒の悲鳴が校舎に反響するなか、考えるより先に駆け出していた雨宮は急いで少女の首筋に手を当てて脈を確かめた。不規則ではあるが弱々しい反応を感じ、肩のあたりを叩いて意識を確かめた。


「大丈夫? 私の声が聴こえる?」


 返事はない。地面に激突してひしゃげた鼻からはおびただしい量の血が吹き出し、瞼が半開きの眼球は焦点が定かでない。


 四階建ての校舎を見上げる――屋上から飛び降りたと仮定した場合、二十メートルの高さに相当する。落下の衝撃を考えると、脳や内臓、脊椎といった生命維持に不可欠な器官に、深刻なダメージを負っていてもなんら不思議ではない。


 素人が下手に触れることで事態の悪化を招く可能性がある以上、この場で雨宮が取れる救急措置は限られていた。


「死ぬんじゃないよ。絶対に死んだら駄目だからね」


 ベルトループから引き抜いた革製のベルトで、特に出血が酷いすねからの出血を少しでも抑えることを優先した。

 大人でも悲鳴を上げそうな力で膝蓋骨の下部をきつく縛り上げるも、少女は反応を示さない。


 さながら野戦病院で治療を施す医師のように、雨宮のブラウスはいつの間にか血に染まっていた。周囲から聞こえる悲鳴を無視して、今にも消え入りそうな命を繋ぎ止めようと声を掛け続けている間に、校舎からようやく事態に気がついて飛び出してきた教師たちが、血相を変えて雨宮のもとに駆けつけた。


「大丈夫。貴方は死なせない」


 血の気が失せた肌の手を握りながら、かつての同級生で緑ヶ丘小学校で不慮の〝転落死〟を遂げた田村朱莉たむらあかりの記憶が、ふいに蘇った。


 屋上から身を投げ出した彼女は、花壇のアスファルトに頭部を打ち付けて絶命した。頚椎をあらぬ方向に曲げて――そう。今日と同じ曇天の空を、光の消えた瞳で見上げていた映像がフラッシュバックする。


 この世界の苦痛から解き放たれた朱莉は、あれから天国へちゃんと旅立っていけたのだろうか――。


 徐々に近づいてくるサイレンの音が、遠くに聴こえる。


         ✽


 田村美羽の出自は少々複雑だった。


 現在タワーマンションが建つ一角はその昔――雨宮の曾祖母の時代までさかのぼると、規模は小さいが〝色街〟が存在していた記録がある。


 跡地には敗戦直後に占領軍の為の慰安所――つまり売春を公に認める施設が作られ、すぐに性病が蔓延したことで慰安所は禁止とされたが、残された土地の記憶は古くから地元の人間に連綿と引き継がれ、後の世代まで〝忌地〟の扱いを受けていた。


 美羽の曾祖母は慰安所で働いていた経歴があり、そこで知り合った進駐軍の兵士とねんごろになるや混血児ハーフの娘を産み落とした。


 父親である男は派遣期間の満了とともに母国に帰り、女手一つで子供を育てた一人娘は中学を卒業すると実家を飛び出して音信不通となるのだが、数年後のある日突然、連絡もなしに乳飲み子を抱えて生まれ育った土地に戻ってきた。


 その娘が美雨の曾祖母である。

 曾祖母の娘もまた同じ歴史を繰り返し、一人で産み落とした子供は女の子で、美羽の母にあたる彼女も高校卒業後に家を出ると外国人の男性との間に美羽を授かり、シングルマザーとして実家に戻ってきた。


 今でこそ外国人の子やハーフの子どもらを学校で見かける機会は増えているが、雨宮が小学生だった当時はまだまだ街中で外国人を見かけること自体が少なかった時代だった。


 見慣れないからこそ警戒心が湧く。あけすけもない言い方をしてしまえば、〝純血の日本人以外は差別の対象〟となっていた。


 美羽の外見は異国の血が流れているにしては朴訥ぼくとつとした顔立ちで、子供の目から見れば自分たちと変わりない日本人にしか見えなかったはず。


 ところが保護者のなかには忌地に住み続けている田村一家を快く思わない保護者も多くいたようで、雨宮が知る限り朱莉は常に酷いイジメに遭っていた。〝虐げても良い対象〟として蔑まれ、信じられないことに教師の一部ですら朱莉をしていた。


 雨宮は朱莉の全てを知っているわけではない。彼女の家庭の話も彼女の要領を得ない会話から、自分なりに解釈したものなのでしかない。


 小学四年生の夏に緑ヶ丘小学校に引っ越してきて、朱莉が校舎の屋上から飛び降りた翌年の夏までの一年程度の付き合いしか無かったが、彼女の控えめな性格と虫も殺せない優しさ――それに滅多なことでは見れなかったが、二人でいるときにだけ見せる泣きそうな笑顔が堪らなく好きだった。


 自分の本心を打ち明けられなかったことが、今でも心の奥底にくさびとなって残っている。


 朱莉が死んで二十年経った今も、雨宮が見てきた彼女の全ては、記憶の引き出しの中に色褪せることなく大切に眠っている。

 

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