ワラシベサマ

きょんきょん

第1話

 赤から青へ信号が切り替わる。

 雨宮典子あまみやのりこが一歩踏み出すより先に、身体より大きなランドセルを背負った児童たちが〝待て〟ができない犬のように、我先にと横断歩道に飛び出し白線を超えていく。


「危ないから走るなよー」


 黄色の旗を振る交通ボランティアの挨拶に、低学年の児童は舌っ足らずな口調で元気よく返事をしていた。高学年の児童は気怠そうに会釈をして通り過ぎると、二十年前と変わりない校門に吸い込まれていく。


 ピヨピヨと鳴る電子音に背中を押され、横断歩道を渡り切ると鉄扉のペンキが真新しくなってること以外に、二十年前と変わらない校門前で立ち止まった。


 色とりどりのランドセルを背負って通り過ぎていく児童たちの背中に、在りし日の自分の姿と重なって見えたのは一瞬のことだった。


 ――隣で歩いていた級友は、もうこの世には存在しない。もしも彼女が生きていれば――意味のない過程の未来を想像してしまうのは、この数年間なかったことだ。


 恋愛にも子育てにも興味のない自分と違って、秀でたところはなくとも欠点もない男性と結ばれていたかもしれない。


 穏やかな家庭を築いて、郊外に慎ましい一軒家でも建てて、彼女の血を引き継いだ子供を一人や二人くらいは産んでいたかもしれない。


 典型的な家族像が幸せだとは個人的には思えないけれど、いずれにせよ小学校を卒業することなく亡くなった彼女の時間が、戻ることは永遠にない。


         ✽


 再開発が進んでいる街にはタワーマンションがそびえ立っていた。昼間でもシャッター街と化していた駅前の商店街は、いつの間にかお洒落な店舗が軒を連ねて活気に満ちている。


 トタン屋根の平屋が連なる光景も、廃工場の跡地も、記憶の中の街並みはことごとく変貌を遂げていた。


 人にも街にも新陳代謝は必要ではあるが、外の世界から戻ってきた雨宮の目には、噛み合わないジグソーパズルを無理やりはめ込んだ歪な形に見えてならない。


 そのような街全体の変化においていかれるように、緑ヶ丘小学校は変わらずそこにある。卒業シーズンになると八重の花弁はなびらを満開に咲かせる桜の木も健在で、青い葉を茂らせて南風に葉を揺らしている。


 突然吹き抜けた風にたなびく髪を押さえる。残暑厳しい九月の空を見上げると、今にも雨が降り出しそうな曇天が低く垂れ込めていた。


 じんわりと額に浮かぶ汗をハンカチで拭うと、体臭とは異なる臭いを感じる。隣を通り過ぎる子供たちが、「今日もドブ川が臭いね」と鼻をつまんでる姿をみて、雨宮も鼻を鳴らしてみた。


 ――たしかに言われてみれば不快な匂いがしなくもない。


 とはいえ、緑ヶ丘小学校に通っていた当時とくらべればどうということはない。

 今日から赴任することが決まっていた緑ヶ丘小学校の裏手には、子供の頃に〝ドブ川〟と呼ばれていた小川が流れている。


 正しくは〝境川〟という名称で、隣町との境を流れる川だから、単純にそう名付けられただけの川。

 普段は膝丈ほどの水深で大雨が降る度に氾濫していた川は、半世紀以上前には子供らの恰好の水遊び場として重宝されていて、今では絶滅危惧レッドリストに載る川魚も豊富だったと聞いた覚えがある。


 だが、少なくとも雨宮が子供の頃には、かつての面影は完全に姿を消していた。

 排水溝から垂れ流される生活排水と、不法投棄のゴミが堆積して汚染されたドブ川は、気温が一気に上昇する初夏に差し掛かると強烈な臭いを漂わせ、近隣住民を悩ませていた。


 当然川に面していた学校も被害を免れられず、真夏の授業中は窓を開けられないレベルの悪臭を放っていて保護者から健康被害を心配する声が上がるほどだった。


 嗅覚は原始的な感覚であり、人間のきゅう神経は大脳皮質だいのうひしつに加えて扁桃体に直接つながっている。街ですれ違った通行人から香る煙草の煙に、かつての恋人の面影が蘇るようにドブ川の残り香が、かつての記憶を再生する。


 膝丈ほどの水深の浅瀬に、血のように真っ赤なランドセルを背負った同級生が転落していく映像が――。


 着古されたボロボロの衣服をヘドロで汚しながら、その様を腹を抱えて笑っている同級生の姿を――。


 そっと手を差し出していたのは私だった。あの時の自分はどんな顔をしていたのだろう――自分では思い出せず、彼女から見た私の顔も逆光で見えなかったはずだ。


 眩しそうに手を握り返す彼女の手の感触が、じっとりと手汗がにじむ手のひらに、生々しく蘇る。 


 「あれ? もしかして典子ちゃんじゃない?」


 自分の名前を呼ぶ声にハッとして振り返ると、手の感触も映像も、水面に小石を投げ入れて波紋が浮かぶように砕けてしまった。


 振り返った先には、信楽焼の狸が喋ってるのではと錯覚するような恰幅の良さの交通ボランティアが立っていた。反射板のベストが前で閉まりきっておらず、段々になった脂肪が揺れている。


 雨宮の顔を見つめながら、「やっぱりそうだわ」と一人で勝手に納得していた。


「卒業して以来だし、私のことなんて覚えてないかしら」

「申し訳ございませんが、どちら様でしょうか」

「ほら、斜向かいのマンションに住んでた室屋のママよ。ママじゃなくてババかしら。アハハ」


 声掛けに反応してしまったことを悔やみながら、愛想笑いを返す。


「覚えてない? 昔はウチの馬鹿息子と同じクラスだったじゃない」


 そうは言われても印象的な人物ならいざ知らず、室屋と名前を聞いても未だにピンとはこない。まだ狸の置物のほうが愛嬌がある女性の顔から、息子の顔を推測してみたが先に痺れを切らした女性のほうが口を開いた。


「ほら、ウチの光輝のこと覚えてない? 五年生の時に典子ちゃんと一緒に学級委員をしてたじゃない」

「室屋……ああ、光輝くんのお母さんでしたか。その節はお世話になりました。以前とお変わりないようで」

「あらやだ。見る影もないほど変わったから、オバサンのこと一目見てわからなかったんでしょ。でも仕方ないわよね、あれから二十年が経つんですもの」


 ほうれい線が深く刻まれた口元に手を当てて微笑む女性が、かつての同級生の母親だと認識するまでに時間を要した。


 思い出すのに時間がかかったのも無理はない。同じ学級委員だったとはいえ彼女の息子とは会話らしい会話をした記憶はないし、あくまで名前を認識していただけで〝ヒト〟というより、〝記号〟として認識していただけなのだから。


「ところで、どうして典子ちゃんがこんなところにいるのかしら?」


 息子に対する評価が散々なものとも知らずに会話は続く。


「実は今日から緑ヶ丘小学校への赴任が決まってるんです」

「あらまあ、確かに典子ちゃんは昔から秀才だったし、人気者だったから教職は天職かもしれないわね。ほんとウチの馬鹿息子とは大違い」

「ああ、いえ、教職免許は」


 そこまで口にして、どうせ〝スクールカウンセラー〟という職業のことなど知らないだろうと思い、口をつぐんだ。


 最近になってようやく世間に認知されるようになったスクールカウンセリングだが、その存在は一定の世代より上の人間には広く浸透していない。


 全国の小、中、高等学校を転々としてきたが、中には臨床心理士という資格を怪しげな宗教家と一緒くたにして色眼鏡でみてくる老教師もいた。


 ゆえに早朝の校門前で懇切丁寧に一から説明を試みたところで、適当な相槌を返されるだけで数分後には忘れ去られているのが関の山だと思うに至る。


「まあ、そうだといいんですけどね」

「最近は教師も大変だって聞くけど、安定してるといえば安定してる職業だし、それじゃあ頑張ってね」


 女性は断りもなしに雨宮の肩を叩くと、自分だけスッキリした顔でボランティア活動を終えて帰っていった。


 やっと開放されたかと、ため息を吐いて校舎に向かうと、周囲に子供の姿が見えなかった。ダッシュで昇降口に駆け込んでいく生徒の姿にハッとして腕時計をかざす。

 無常に出勤しなくてはならない時間が差し迫ってた。


 ――初日から遅刻なんて勘弁してよ。


 思わず舌打ちをして地面を蹴り上げたそのとき――すぐ正面で重い液体含んだ水風船が破裂するような音が、開けっ放しの窓から子どもたちの声が漏れ聞こえる校舎に反響した。


 雨宮の進行方向、数メートル先に少女が倒れている。


 

 




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