3.迷走

 合奏が終わり、それぞれが課題を貰って何時もの様に吹奏楽部の練習は終了。とっぷりと暮れた闇夜の中に街の火が燈り、街灯が輝き始める。高校は比較的市街地の中心部に有ったから通学路は比較的明るくて多少遅くなって特に問題なく自宅まで歩いて帰ることが出来る。


 凛はたいてい、今野や傑と連れ立って帰宅していたのだが、今日は一人夜道を歩く。見上げる空には夏の星座が輝き始めて季節はすっかり夏の様相に変わっている。入学式の時には少しチリ掛けてはいたが桜の花に囲まれていたのに今はすっかり緑の葉が茂り当時の面影はすっかりと消え去って、においは少し尖ったものに感じられた。


 その尖った香りに影響されているのだろうか、最近の凛には少し落ち着きが無い。いや、何となく自分を見失っていると表現したほうが正しいのかも知れない。集中力散漫で授業中も窓の外ばかりに視線を向けたり、部の練習でも精彩を欠いた状態が目立ち自分を表現出来ていない。だからだろうか、突然黙り込んだり人を避けて友人達の輪の中に入ろうとしなかったり……遅れてきた反抗期に見えなくも無いのだが根底にある原因はコンクールの自由曲、そこに全てが集約されていた。


 更に茜の『どうしてもっと早く、凛君に出会えなかったのかしら』と言う言葉が凛の心を搔き乱す。今更そんな事を考えたころで運命が変わる訳も無いのだがやはり考え込んでしまうのだ、もしも本当に紗久良より先に茜に出会っていたとしたら。右手の薬指につけられた婚約指輪が輝く事は無かったのではないか、そしてそれをどう受け止めればいいのか。


 ……更に自分はそれを受け入れるのか。


「ふう……」


 小さな溜息と共に見上げた夜空に輝くの夏の大三角形は何も語る事無く輝いて見せるだけだった。


「凛君」


 後ろから呼び止められて凛はゆっくりと振り返ると視線の先に居たのは茜だった。


「茜さん」

「練習終わったの」


 立ち止まった自分に向かって笑顔を湛え、柔らかな声で尋ねながら茜はゆっくりと歩きながら近づいて来る。その顔を眺めながら凛は複雑な感情が混じった面差しを見せる。その様子に気付いた茜は目を細めて不思議そうな表情を見せる。茜は気づいているのだろうか、凛の複雑な感情の一端を自分が担っていてある意味彼女の情緒不安定の主原因が自分に起因している事を……実は気付いていたりする。


 女の子がマジックポイントLeven1をクリアするのはこのあたりの年代なのかも知れない。


「ねぇ凛君」

「は、い……」


 歯切れの悪い返事がおかしくて右手の甲を口元に当てながら茜はくすくすと笑い始めると、その姿を凛は訝しげに見詰める。


「ごめんなさい、なんか……可愛くて」


 可愛いと言う単語に何故か凛は過剰反応を見せる。それは男の子時代の本能の名残と言っても良かった。幼児の頃、紗久良の前では白馬の王子様。往々にして男の子は女の子を守ろうとする物で凛も御多分に漏れず、彼女が困った顔をすればそれを憂いて何とかしようとするのだが結局問題を解決する事は出来ず大泣きして終わると言うのが何時ものパターンになるのだが、そこは子供で二~三日過ぎてしまえばそんな事などけろっと忘れて同じことを繰り返す。


 女の子は男の子が守る物、強くて逞しくてカッコいいのが男の子。ジェンダー云々と言う意識すら芽生えていない幼児の時代、それでも男の子は強く有ろうとするのはDNAに刻み込まれた本能なのであろうか。もちろんこれが全ての人に当てはまる訳では無い、性別に対する認識はひとくくりに出来る程、単純な物では無い。人間がその事に気付いたのはつい最近の事だ。そして茜はそんな凛に更に近づくとちょっと暴力的な言葉を耳元で囁いた。


「溜まってるんでしょ?」


 その言葉で凛は爪先から髪の毛の先端まで真っ赤に染まる。瞬間湯沸かし器を軽く超えたスピードで。


「た、た……」


 まるで燃え上がる石炭みたいに真っ赤に体を染めながら凛はそろそろと後ずさりする。しかし、茜は少し腰を屈め顔を突き出しながらじりじりと追いつめて行く。


「溜めっぱなしは体に良くないよ」

「か、体に良くないって……」

「出しちゃえばすっきりするから……ね?」


 視界が暗転して意識が一瞬無くなった様な気がしたが凛は何とかその場に踏みとどまる。もしも凛が男の子として今の年まで育っていたとしたら、おそらく出す物を抱えていた筈だが女の子の体になった今、体はそう言う機能を備えていない。だが、茜の言葉に動揺するのはやはり記憶の扉の後ろに仕舞い込まれたインスティンクトなのである。


「ねぇ、凛君……」

「は、はい」

「おねぇさんに任せてみない?」

「は、はぁ?」


 雌豹の瞳を見せる茜に凛はじわじわとコーナーに追い詰められるボクサー宜しくただ只管後ずさりする以外の対策を講じる事が出来なかった。と、言うより思考回路がぶっ飛んであちこちでショートして火花を飛ばし頭の中でばちばちと弾け飛んでメンタルシャットダウン状態だった。その様子を見下ろす夏の大三角はやはりきらきらと輝くだけで何の助言も与える事は無かった。

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