2.赤朱鷺色の思い

「暗いな……」


 そんな事は言われなくても分かっている。吹奏楽コンクールの自由曲が組曲惑星の第4曲「木星」に決まってから凛はちょっとした鬱状態に陥っていた。好きな曲では有るのだが正直演奏の仕方が分からない。楽譜に書いてある通りに演奏すればカラオケの祭典システム同様、合格点を叩き出すことは出来るのだが果たしてそれだけで良いのか、コンクールと言う場において。


 そんな疑問が頭の中をぐるぐるし出して収拾がつかなくなる。先輩の助言でも有ればいいのだがこの高校の吹奏楽部でユーフォニアム奏者は彼女一人と言う孤独な状態。実はこれ、中学の時もそうだったのだがその時はまだ暗中模索で只管音を出す事が出来れば何とかなるだろうと言う開き直りと、この楽器はあまり主役の座にはつかない、そんな安心感も有ってある意味開き直れていた……。


 そして、ほんの少しだけ成長した今、責任感と言う物が芽生え始めているのだ。それは、もしも失敗したらどうしようと言うダメージに対する恐れ、あるいは吹っ切れない自己防衛本能とでもいえば良いのだろうか。大人ならば誰でも持つある意味人間の本能とも言える心情なのだが経験値の浅い時代はそれが物凄い足枷になったりするのだ。


 横にフーフォニアムと譜面台を立てて置きその横に椅子を引っ張り出してぺたんと座り込む凛は今にも頭を抱え込んでその場にうずくまってしまいそうな勢いだったがそれを見詰める傑は彼女に対して何も言う事は無く、黙々と自分の練習をこなしていた。


「ねぇ、どうすればいいと思う……傑…」


 トロンボーンの音に掻き消され彼の耳に声が届いていないのか返事が帰って来る事は無かった。 


「冷たい……」


 既に半泣き状態の凛はよろっと椅子から立ち上がるとユーフォニアムを抱きかかえるとふらっと教室を出る。そして階段を上り屋上に出る。夏至まではまだだいぶあるから夕方とは言えまだまだ日は高くてはっきりを周りをはっきりと見渡すことが出来た。そして暫くの間、少し生暖かさが残る風を浴び髪の毛をふわりと揺らしながら、ぼんやりと街並みを眺める。それからゆっくりとユーフォニアムを構えると小さく息を吸い込んでからそれを静かに奏で始めた。


 曲は『Sonf for ina(ソング フォー イナ)』作曲者はフィリップ・スパークで吹奏楽、ブラスバンド向けの作品を多数手掛けたイギリス、ロンドンの作曲家だった。


 この曲は彼の友人でユーフォニアム奏者でもあるリッキー・マクドネルの妻、イナ・マクドネルのために作曲されたもので、伸びやかで温かさ溢れる旋律を通してイナの人生と彼女の家族への愛を表現したのだ。勿論、凛はこの楽曲の経緯を知っている、そしてこの曲を演奏するたびに思い出すのは紗久良の笑顔、彼女が優しく微笑む様子はこの曲に重なって胸にじんわりと染み込んで来る。そして込める思いは二人の命が終わるまで、一緒に過ごすことが出来る事、ただそれだけだった。


 そう願いながらの演奏はあか朱鷺ときいろに染まり始めた空に溶けて行く。自分と同じ空を見上げている筈の彼女に届く事を祈りながらの伸びやかな演奏は日暮れの街に響き渡る、それは彼女に対する凛の心からの愛を込めたメッセージだった。


 演奏が終わり余韻が消えた後、凛はユーフォニアムを下ろすとがっくりと項垂うなだれる。自分の弱さで体がずしんと重くなった気がしたその時、後ろの方から小さな拍手が聞こえてきて思わずそちらに振り向くと、凛の視界に入ったのはスケッチブックを脇に抱えた茜の姿だった。


「とてもいい曲ね、なんて言うタイトルなの?」


 夕日に頬を染めて少し虚無感漂う笑顔を見せながら訪ねた茜に若干の戸惑いを見せながら凛は答える。


「ソ、ソング フォー イナ……」

「ふぅん、聴いた事の無い曲」

「吹奏楽の関係者には意外と有名な曲なんだけどな」


 恥ずかしそうな笑顔を見せながらそう答えた凛を茜は相変わらず見つめ続ける。その視線が微妙にこそばゆくて照れ隠しの様に今度は凛が尋ねる。


「あ、茜さんは……どうしてここに」

「うん、これでも一応、美術部なの」


 茜は抱えていたスケッチブックを正面に持ち直すとページをめくって描かれていた物を見せた。


「え?」


 スケッチブックに描かれていたのはユーフォニアムを演奏する人物のクロッキーだった。そして、短い時間にシンプルな線で描かれてはいるがそれが凛であるとはっきり分かった。


「……ぼ、僕?」


 自分の顔を指差しながらおずおずと尋ねた凛に茜はゆっくりと頷いて見せた。


「それを演奏してる時の凛君、とっても綺麗で素敵だった」

「あ、あはははは……」


 今迄、素敵だとか綺麗だとか言われた事の無い凛はその言葉に思わず赤面しながら恥ずかしそうな表情を見せる。


「好きな人の為に演奏していたからね」

「……え、う、うん……まぁ」

「その指輪の人の為?」


 凛は小さく頷くと茜が小さな溜息をもらす。


「どうしてもっと早く、凛君に出会えなかったのかしら。不思議で残酷で、人の心を乱すのね、運命って」


 そう呟く茜に凛が掛ける言葉を見つけることが出来なかった。もしも、紗久良と出会う前に茜に出会っていたら、自分の運命は変わっていたのだろうか。陽はゆっくりと傾いて空を朱に染めて行った。

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