第四章:甘い時に流されて

1.重なる心は

「ねぇ凜君」


 さらさらと黒髪を靡かせながら茜は彼女に向かって振り向いた茜は真っ白なワンピースに身を包み、真夏の太陽を反射してその輪郭をぼんやりと浮かび上がらせる少女の微笑みは凛の心にチクリと刺さり脊髄を通して全身に伝わると目が眩みそうになり思わず黙り込む。


「どうしたの?」


 魔法の呪文で石にでもされたみたいに固まる凛の姿を見ながら不思議そうな、あるいは心配そうな面差しを見せる。


「え、う、ううん、何でもないよ。なに?」

「良かった、熱中症にでもなっちゃったかと思ったわ」


 都会の真ん中、歩行者天国の大通りは両側を建物に囲まれてはいるが真上化の日差しを遮る物は無い。茜はレースがあしらわれたちょっとゴシックな日傘をさしているのだが凛は半袖のTシャツにつば付きのキャップを被っているだけだったから夏の太陽は容赦無く降り注ぐ。ここ数年続く酷暑は行き交う人々の体力を容赦無く奪う。


「僕は大丈夫だから心配しないで」

「そう、なら良いんだけど」


 間も無く夏休み。期末試験も無事に乗り切って学生達はつかの間の安息を得られる時期に入ると二人もその恩恵に預かり連れ立って街に繰り出したのだ。中学時代とは少し雰囲気が違う夏休み直前の静けさと眩しい季節に望む期待。しかし、夏休みの予定はほぼ部活で学校と言う事になりそうだった。


 吹奏楽部のコンクールは秋に行われるからそこに向けてスパートしなければならないのだ。それは中学時代も同じで凛は長期の休みを満喫した事が殆ど無かった。中学時代もお盆の期間以外はほぼほぼ学校で練習三昧、ある意味学生らしいなる休みと言えなくは無いが新学期が始まってクラスメイトから聞く夏休みの思い出が少し羨ましくも感じられた。


「ね、少し涼もうか」


 茜はそう言いながらファストフード店を指差した。その言葉に凛は微笑みながら頷いて見せた。


 ★★★


 吹奏楽部のミーティングが開かれて、今年のコンクールに関する日程その他の詳細が顧問から説明され、部員達の目標が明確になるとそのモチベーションは否が応でもでも盛り上がる……のだが、凛はちょっとした不安を覚えた。何故か、コンクールでは発表する曲に『課題曲』と『自由曲』の二極が有る。課題曲は主催者側が選定した曲が4曲ほど用意されて参加校がその中のいずれかを選ぶ。今はショートプログラムと名前を変えて自由に縁起出来る様になったフィギュアスケートだが、その昔は『規定演技』または『コンパルソリーフィギュア』と呼ばれ、サークルやスクウェア、ブラケット等8種類の図形をいかに正確になぞる事が出来るかと言う競技が有り、それは1990年に廃止された。


 それと同じ様な趣旨なのがこの課題曲と呼ばれるもので全く面白みが無く、正直練習に身が入らない。で、有ればその中から難易度がそれほどでもない物を選択してやり過ごすと言うのがセオリーだったから凛はさほど不安を覚える事は無い、そして、彼女が不安を覚えたのは自由曲の方で顧問が選択したのはグスターヴ・シオドア・フォン・ホルスト作曲の『組曲惑星』その中の第4曲『木星-Jupiter-』だったからだ。


 何故凛が不安を覚えるか、この曲の中にユーフォニアムの本領発揮的な部分が有るからだ。歌手の平原綾香が歌唱する『Jupiter』のあの旋律の部分である。木星のような力強い曲調でも、ユーフォニアム独特の温かみを感じさせる演奏をしなければならない上になんと独奏部分も存在する。しかも、ユーフォニアムは凛しかいないから全てのプレッシャーが彼女の肩にのしかかる。失敗したからと言って取って食われる訳では無いが、少なくとも恥ずかしい演奏はしたくはないの奏者であれば皆同じ思いの筈だ。


「ひゃっ!!」


 突然叫んだ凜に向け部員全員の自然が集まる。それは、プレッシャーに対して物思いにふけり、油断していたところに横から肩を叩かれて不意を突かれたからだった。肩を叩いたのは傑、そして彼は彼女の耳元で小さな声で呟いた。


「まぁ、頑張れ……」


 当然傑もこの曲の事は承知しているから、凛の心情をくみ取る事が出来たのだろう。だが、人の災難と言う物は、はたから見れば楽しい物で彼の表情筋はひくひくと震えて今にも吹き出しそうな雰囲気だった。その顔を見て凛は思わず唇を噛む、そしてぷいっとそっぽを向くとこれまた小さな声でこう漏らした。


「嫌いだ、傑なんて……」


 いずれにしても秋までの部の方針は確定した訳でこれから本格的な練習に突入していく訳だがこれ以外にもイベントは有る。その第一弾は、野球部の夏の甲子園大会へ向けての地区予選、応援の練習だった。そう、スタンドで演奏するあれである。ただ、凛の高校の野球部は甲子園の本戦に進出した実績など無いから予選大会でその役目を終えるであろう、しかし、それは高校時代と言う青春の一ページにしっかりと刻まれる事になるのだ。


 若い日の夏は青春の象徴、あっという間に過ぎ去ってしまった事を懐かしむのか悔やむのか、それはその人それぞれの生き方に全て委ねられるのかもしれない。

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