10.ファーストキス(莉子の場合)
ゴールに嫌われたボールはフローリングの床を転々と弾みながらコートの外に出て行った。全く決まらないスリーポイントシュートに莉子の心の中で
……人はそれを『スランプ』と呼ぶ。
大人であれば酒かっ食らって全てを忘れてリセットしてという手を使う事が有るのだが、高校生で未成年の莉子が使える手段ではない。只管暗い洞窟を抜けさんさんと陽の光が輝く青空を望める場所に辿り着くまで耐えるしかないのだがそのストレスたるや、奥歯を噛む砕いてしまいそうな程に溜まりまくってそれは怒りへと発展しそうになってしまうのだが周りの目も有る事だから彼女はそれを必死でひた隠す。そ
して、そのプレッシャーはクッション無しで今野にぶつけられたりする。しかし今野はそれを全く迷惑だとか鬱陶しいと感じる事は無く、全く普通に受け止めていつもへらへらと軽めの笑顔を絶やさない。それが愛だと彼は心の底から信じているのだ。しかし今回のスランプはかなり深刻な様で莉子の機嫌は最悪を通り越して絶望の領域に達しようとしていて自体はかなり深刻だった。
「そういう時は気分転換です!!」
土曜の午後、バスケの練習に行こうとしていた莉子を無理矢理引っ張り出して自宅近所の公園に連れ出した。そして昨今、公園に設置される遊具としては絶滅危惧種の中でもCR(Critically Endangered:深刻な危機)に分類される『ブランコ』に二人並んで座り込んだ。
もっとも公園に設置される遊具は危険だからと言う理由で昭和・平成の時代に持ち込まれた物はほぼ撤去される傾向にある。ブランコ、シーソー、ジャングルジムにグローブジャングル。それらは全て昔子供だった者達の記憶の中の宝箱だけに存在する幻となりつつあり、この公園にブランコが残っているの奇跡に近いと思われた。そして、これが有る事を知っていたから今野は莉子をここに誘ったのだ。二人並んで座るための理由が欲しい、そんな思いで。だが、莉子の表情は不機嫌そのものでそれがもろに口調に出る。
「これが気分転換なのか?」
莉子は隣で極めて上機嫌には晴れ渡る初夏の青空を見上げる今野に横目で鋭い棘のような視線を向けた。
「あっ!!」
その視線を全く気にする事無く今野は空を見上げながら少し驚いた様な声を上げると同時に莉子はその視線を追いかける。
「燕……?」
「はい、もうそんな季節になったんですね」
「ふうん」
眩しく輝く太陽の下、燕は空から急降下すると地面すれすれを飛び、再び視線で追いかけるのが難しいくらいのスピードで彼方の空に飛び去った。
「高校受験からあっという間に半年近く経っちゃいましたね。時間経過が早く感じるのは年取った証拠だって言いますけど、莉子さんはどう思います?」
「な、なんだよ、どう思うったって忙しいんだから仕方ないだろ」
「そうですね、でも、それに流されちゃいけないって僕は思うんですよ」
「はぁ?」
そんな気は全くないのだろうが今野の話が妙に説教じみて聞こえたから莉子は顔を顰めると彼に向けていた視線を徐に外して正面に向けるとそのままかくんと地面に落とした。しかし、今野は彼女の態度を歯牙にもかけずいつもの柔らかな口調で優しく話し続ける。
「人生百年って言いますよね」
「それがどうした」
「僕らの人生残り八十年以上有る訳ですよね」
「だからなんだ」
「つまりですね、百分の一にもカウント出来ない時間の中で今を語る事に意味が有るんだろうかって言う事ですよ」
優しいと言うよりはちょっと回りくどくて学校の年配の教師が横で古臭い人生訓を語っている様に感じた莉子はついに彼に向かってブチ切れる。
「だからなんだってんだよ、うっせぇんだよ!!」
烈火の如き怒りと共に怒鳴った莉子を彼は暖簾に腕押し、ふんわりとその権幕をやり過ごすと反対に笑顔を返した。
「今が底だとしたら、後は上向きしかないって言う事です」
「はぁ?」
「悪い事は長続きしないって言う事です。特に莉子さんみたいな努力家の頑張りが報われない訳無いじゃないですか」
「お前なぁ……」
「僕も有るんですよたまに、サクソフォンから思った音が出なくなって楽器に触るのが嫌になる事」
そういって微笑む今野に再び視線を移した莉子は彼の顔を見ると吊り上がった目尻がじわじわと下がって行くのを感じた。それは、自分の隣に座って穏かな笑顔を湛えているこいつも自分と同じ経験をした事が有るのだと悟ったからだった。スポーツと音楽、分野は全く違う様に見えるが人の行いである以上その調子に
「……そうなったらどうするんだよ」
「あくまで僕の場合ですが、そういう時は……」
「そういう時は?」
「一度全部ぶん投げて忘れます」
「はぁ?」
全てを否定する様な発言に莉子は眉間に皺を寄せると彼をぎらりと睨みつけた。
「煮詰まったスープは思い切って一度捨てて、基本からもう一度やり直します。そうすると忘れていたことが蘇って来て案外元に戻るもんですよ。極限まで突き詰めるの手かも知れませんがねちゃねちゃになっちゃったらその中で動きを取るのって多分できないと思います」
「……ねちゃねちゃって…なんだよそれ」
「さらっとしてる方がやりやすいって事です」
莉子は目からぽろっと何かが落ちた様な気がした。無理矢理付け焼刃の様なテクニックでねじ伏せようとして無駄にもがいていた自分の姿が脳裏に浮かぶとその姿が酷く
「……成程ね」
莉子は平静を装いながら面差しを正面に戻すとそのまま空を見上げる。すると何故か頬が緩み自然い笑顔が湧いてくる様に感じるとブランコの鎖を掴み腕の力で立ち上がると今野の前に仁王立ち。その姿を見上げる彼はあくまでも笑顔を絶やさない。そして莉子は少しだけ腰を屈めると彼の唇に自分の唇をちょこんと当てる。そして腰を戻すと小首を少し傾げなが綿菓子のような笑顔を浮かべて見せながら一言こういった。
「……ありがとう」
その言葉に今野は
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