9.ファーストキス(凛の場合)
吹奏楽で使われる楽器は唇を付けたり口で銜えたりして音を出す物が大半で、該当しないのはパーカッションくらいのものだろうか。だから代々受け継がれてきた楽器は誰かの口に触れたものが大半の筈だ。もっとも個人持ちの楽器を用意する者も居るからそう言う経験が無い者もいるにはいるが部員のほぼ全員が間接キス経験者と言っても良いのだろうか。
……その事に凛はいきなり気が付いた。自分が今使っている楽器はどこの誰が使っていた物なのだろう、男子なのか女子なのか。ユーフォニアムは楽器のガタイから一昔前は肺活量的に男子が中心の楽器だったがここ最近は女子の奏者もかなり増えていて、いや、チューバみたいなどう見ても大型の楽器ですら女子が演奏しているのを頻繁に見かける事が多くなり、この楽器は男子がどうとか女子がどうとか言う垣根はほぼ無くなり、望めばそれを演奏出来る、それが主流になりつつあった。楽器の運搬を含めて女子の力は男子に劣らない時代が訪れているのだ。
そして凛はユーフォニアムからマウスピースを取り外して唇が触れる『リム』の部分をじっと見つめる。その様子に気付いた傑はトロンボーンを構えたまま視線だけを彼女に向けた。その視線に気付いた凛は改まった表情を見せてから何かを取り作る様に右手を軽く握り口元に持って行くとコホンと小さく咳払いをして見せる。その仕草が妙に少女っぽく感じて傑はトロンボーンを肩から降ろして石突を床に付ける。
「……どうしたんだ、おかしいぞ最近」
「え、そ、そうかな」
「ああ、授業中も注意力散漫だし集中力にかけてると言うか」
「あ、あは、あはははは……」
傑の指摘に乾いた笑い声を無意味に発して空元気をアピールして見せる凛だったが傑は小さく溜息と言う反応を見せただけだった。
「凛、なんか悩み事でも有るんじゃないのか」
「え、う、ううん、そんな事は」
「お前、気付いてないだろ」
「な、何に?」
「考えてる事が顔に出るって」
q反射的に右掌を頬に当て凛はぴくんと背筋を伸ばす。全く同じ言葉を凛は母に言われた事が有るそれは正直な証拠だから気にする事は無いと言っていた。だから、特に気にしてはいなかったのだが今の傑の言葉は魚の小骨の様に胸にチクリと刺さった気がした。ご飯を噛まずに丸飲みすれば取れてしまいそうな程度の違和感だったがなぜかそれが心に引っかかる。そして思い浮かぶのは茜の笑顔。少しお嬢様然とした年上の女性は凛の心の中で輝き始めている事に気がついてはいるのだが、それに対する回答は今の時点で持ち合わせてはいなかった。凛にとってのゴール地点は紗久良であって茜ではない。
……心は大きく揺れる。左手の薬指に光るリングは
ただ、誓いは縛りではない。優先されるのは個の意思、そしてそれが優先された時の別れの言葉、優しい微笑み。凛の脳裏に紗久良の寂しそうな笑顔が浮かぶ、距離に愛が千切れてしまいそうな不安を感じるのは若さが発する不安定さでは無い。
ユーフォニアムからマウスピースを取り外して唇に当てふうっと息を吹き込んでみる。冷たい金属は体温で暖められた空気で少しだけ温もりを帯びる。彼女の体温を帯びたそれはただの金属の塊では無く彼女の体の一部になって柔らかなメロディを歌い始める。それが吹奏楽器の良さなのだと凜は理解している。そしてその唇は、紗久良の唇にも触れた唇。自分が抱き抱えて歌っているのはひょっとしたら紗久良なのでは無いか、そんな思いが心を過ったと同時に改めて思う、凛のファーストキスの相手は紗久良なのだと。
★★★
「キスの経験は有るのよね?」
「え……そ、それは…」
昼休み、何時もの桜の木の元で凛と茜は二人だけの時間を過ごす。用意された
ただ、茜とこうして心を触れ合うこの場所の居心地がまるで揺り篭の中の様に感じられていたのだ、そうして二人の感覚は着実に縮まり始めている事に周りはまだ気づいていなかった。
茜は凛の左手をそっと握って薬指に目をやった。そこには常につけている紗久良との婚約指輪が輝いている。
「この指輪の相手が羨ましいわ。私にはこんなに本気になれる人は現れるのかしら」
時々何の前触れも無く見せる茜の憂いを含む表情に凛の心臓が大きく脈打つ。彼女の表情に不安を覚えた訳ではない、どちらかと言えば自分の心のゆらぎに戸惑いを覚えていると言った方が正しいのだろうか、真意を量り切れない自分の心を
「……え?」
柔らかくて暖かな物が唇に触れる。それが茜の唇だという事に気付くのにしばらく時間が必要だった。そして、凛はそれを拒絶しなかった。初夏の桜の木の下で、少しいけない物語が幕を開ける、その先に有るのは別れなのか、それとも新しい出会いなのか。二人を撫でて立ち去った風は何も語ることは無かった。
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