8.ファーストキス(摩耶の場合)

「……摩耶」

「はい?」


 日曜日の何時もの喫茶店、何時もの静けさに包まれたデートの最中に傑は不意に口を開いた。その言葉に摩耶は飲みかけのアップルティーのカップ越しに視線を向ける。無言の静けさに何となく慣れて黙々と文庫本の活字を追いかけるだけの彼の様子に不安を覚える事も無くなり、逆に二人だけの沈黙に安らぎを覚えたりする自分の変化が何となくおかしくて時々口角を上げて見せるが傑はそれに気づかない。


『ちゃんと好きだ』


 傑が言ったその言葉は摩耶の想いを補強して多少に雨風には耐えられる強さを与えてくれている。思春期の不安定な心境を無風の水面と言うまでにはいかないが、が明日の様に折れやすくて壊れやすい彼女の心を十分に支えていた。


「……退屈じゃないか」

「え?」

「いやその、こんな会い方しかしてないからさ」


 摩耶は椅子に深く座り直すとカップをテーブルに置いて背筋を伸ばし両膝の上に両手を揃えて瞳を閉じるとちょっと顔を上向きにして、何か文句を言いたそうな表情で強めの口調でこう言った。


「もう、慣れましたから」


 思いがけない彼女の反応に傑は少し戸惑った表情を見せる。その戸惑いが何だか新鮮に感じられて摩耶は思わず吹き出した。新鮮さと吹き出す程の可笑しさにどういう関連性が有るのか自分でもあまり良く理解出来なかったが、それはいつも冷静で少し冷たさが感られたりする彼の態度とのコントラストが少し眩しく映ったのだ。


 彼の棘は誠実さの裏返し、恥ずかしがり屋で照れ屋な部分を覆い隠すための盾でしかない。しかしその縦の内側を麻耶は最近覗き見ることが出来る様になったのだ。そこにいる傑は正直者で恥ずかしがり屋で自分を飾ることの出来ない不器用な、ごくごく普通でどこにでも居るまだまだ頼りない少年なのだ、それは麻耶が聞いた『ちゃんと好きだ』と言う言葉に凝縮されている事に気付いたのはごくごく最近の事だった。


「……麻耶」


 普段見せないとんでもない弱々しい呟きに麻耶は堪らず吹き出した。そして、その笑いを必死で堪えた結果、肩を震わせながら思い切り咳き込んだ。


「だ、大丈夫か?」


 思わず席から立ち上がり彼女の肩に右手を添えようとしたその瞬間、麻耶は目じりに涙を滲ませながら、それでも今までに見せた事の無い楽しさが溢れ出る表情を見せる。その彼女の顔を見た瞬間、傑はやられたと思った。そして、この子は自分に合わせでどんどん捻くれて、自分よりも遥かに柔軟で機知に富む女性になるのではないかと言う予感が背中をざわつかせる。線の細い女性だがこれから芯の強い性格になりそうな予感がした。そして心配そうな視線の中で摩耶は少しせき込みながら呟いた。


「……なんか嬉しいな」


 そう言ってから落ち着きを取り戻し、再び視線を上げるとにじみ出た涙を掌で拭い取りながら彼女は柔らかな笑顔を見せるそれはまるでパステルカラーのラベンダーみたいな純粋な清潔感を感じさせる。少し前に見せた芯の強い女性になりそうな雰囲気を微塵も見当たらないのは彼女の二面性なのだろうか……いや、どちらも彼女の表の顔。それがとても新鮮で眩しく見えて傑は思わず立ち上がると体を伸ばし、彼女の顔にゆっくりと自分の顔を近づける。


 窓から差し込む午前中の柔らかな陽の光が斜めに差し込みテーブルに反射して周りの風景が少し滲んで見える。それは摩耶の顔も同じで細くて白い産毛に反射し彼女の表情を輝かせる。そのまま二人は暫くの間見つめ合った後摩耶はゆっくりと瞳を閉じる。それに合わせて傑は自分の唇を彼女の唇に小鳥が嘴を啄み合う様に優しく重ねた。その様子を客の数人は気付いているのかも知れないが誰も何も言う事は無かった。


 その行為があまりにも自然で、あまりにも当たり前の風景に見えたからだ。煌は若さの特権なのかも知れない、しかし、二人に時の流れは関係無いのかも知れなかった。この時間、この一瞬が一番若く輝く時なのだ、それは百年経っても失われない温かい想いの表れなのかも知れない。


 ★★★


 帰宅し摩耶はリビングのローテーブルの前にぺたりと座り込むと定まらない視線を天井に泳がせる。


「……どうしたの、お姉ちゃん」


 無意味な笑みを浮かべながら座り込む彼女の様子を遠巻きに恐る々腫れ物に触れるような口調でそう尋ねた彼女の妹は極めて不審そうな表情を見せる。そして返事をしない姉の横に同じくぺたんと座り込むと目の前で掌をひらひらと振って見せる……しかし摩耶は反応しないから右手人差し指で摩耶の頬をつんつんと筒ついて見せたがこれまた目立った反応は無い。ほんの少し瞳が自分の方を向いたようにも見えたがそれっきりで再び反応は無くなった。


 妹は背筋を伸ばし少し引き気味で引き攣った表情を浮かべるとゆっくりと立ち上がりそろそろとリビングの入り口に向けて後ずさるそして入り口から完全に体が出たところで脱兎だっとの如くキッチンに向けて叫びながら走り始めた。


「おかぁさ~~~ん、おねぇちゃん、なんか変~~~」


 妹の言う様に、恋と言うのは変な物なのかも知れなかった。そして摩耶の脳裏には重ねられた傑の唇の柔らかさと暖かさがぐるぐると反芻されていた。

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