6.母の不安と凛の動揺

「お前大丈夫かとおでこに手を当てた……」


 その言葉と同時に額に生暖かさを感じた凛は不意打ちを食らったかの様にピクリと背筋を伸ばす。そして、気配の方向に向かってぱっとぱっと顔を向ける。


「な、なんだよ今野!!」

「いやだから大丈夫かなと思ってさ」


 少し屈みながら左手を腰に当て顔を覗き込んでいる今野と視線が合った瞬間、凛は座っていた椅子からばね仕掛けの人形みたいに弾かれるみたいに飛びのき無意味に焦りながら訳の分からないことを口走り始める。


「べべべ、別、別に何でもないし、変わった事も無いし、お姉さまって呼んでもいいとか言われたとかそんなことは全く無いし、ちょっとドキドキしたとっとっ、とか、とか、そんなこと全然何にも無いんだからね!!」


 その狼狽ぶりから何も無い訳が無いだろうと思うことは極めて容易で、いや、思わないほうがどうかしていると言ってもいい位の焦りと動揺と挙措失措きょそしっとうぶりを見れば逆に突っ込む意欲を失わせてしまう。今野は背筋を伸ばすと頭をぼりぼりと掻きながら小さいが深い溜息をついて見せる。


「分かり易い奴だなホントに……」

「な、なんだよ、その分かりやすいってのは!!」

「昔からそうだったもんな、お前、隠し事が苦手だからな」

「……そ、それは」


 そう、今野の指摘通りで凛は昔から隠し事が苦手なことは自分でも自覚していて、何かあればすぐに母に見抜かれて根掘り葉掘り突っ込まれることは日常茶飯事だったのだ。嘘や隠し事が苦手と言うのは否定すべき要素ではないとは思うが度が過ぎると不器用と言うレッテルを張られてしまう場合があるから筒抜けにしてしまうのは大人になるとそれはそれである程度問題を孕むの事が有るのかもしれない。ごにょごにょと語尾を濁らせる凛を見ながら今野は心配そうな視線を向けた。


「ま、何か心配事があるならいつでも言えよ、男同士の友情は永遠だからな」


 今野はそういってからかちんとウィンクを決めるとくるりと踵を返しかなり気障に右手を上げるとぱちんと親指を鳴らして見せた。その態度に対して今度は凛が心の中で突っ込みを入れる、お前に何か相談してすんなり物事が解決した事案は今までに一つも無かった筈だぞと。まぁ、紗久良への告白はうまく行った方だと評価してやれない事も無いが結局、その後、二人で出掛けた初詣で見知らぬ男三人組に絡まれたりする羽目になったりしたのだからノントラブルとは言えないじゃないかと。しかし、おそらくこれからも未来みらい永劫えいごう、男同士の友情には感謝して過ごすだろう事は火を見るよりも明らかに感じられた。


 ★★★


「……凛、凛ってば」


 遠くから誰かに呼ばれたような気がして凛はその声の方向に向かって視線を向ける。しかし、彼女を呼んだのはテーブルを挟んで座る母だった。


「え、あ、な、なぁにおかぁさん」

「なぁにじゃないわよ、なにぼーっとしてるの?」

「そ、そんな事は……」


 夕食の食卓は何時もの通り母と二人きりの時間でその日の出来事を色々と話す時間でも有ったのだが、今日の凛はそんな事は上の空、頭の中がごちゃまぜ状態で思考も視線も定まらない。自分自身でも何を考えているのか分からない状態で母親と向き合っていたのだ。そして、若干不安げな視線を向ける母親の不審そうな表情に凛は苦笑いを返す。


「……学校で何か有ったの?」

「え、う、ううん別に」

「別に……ねぇ。凛がそういう時はたいてい何か有った時よねぇ」


 的確な指摘に凛の心臓はどきりと大きく脈打って背筋をぴくんと刺激する。


「だ、大丈夫だから、心配しないでよおかぁさん」

「……なら、良いんだけど。まさか虐められてるなんてことは無いわよね」

「虐められる?」

「あなたが元々は男の子だって話が広がってそれが原因でって」

「僕は元男の子だって言う事は全然気にしてないし、もしその話が広がったとしたら、正直に経緯は説明するつもりだし、その事が僕のマイナス要素だとも思って無いし」


 ぎこちない笑みを浮かべながらそう話す凜を見ながら母は少し不安そうな表情を見せる。だが、それ以上追及する事はしなかった。何故なら、凛が元男の子だと言う事を否定的に捉えていないと言う話を信じたかったからだ。どちらかと言うとそんな過去を背負わせてしまった凛に対して負い目を感じているのは母である遥の方だったからだ。その思いは凛が十八歳になって戸籍上の性別を書き換える事が出来る歳になる迄続く後ろめたさなのかも知れなかった。


「おかぁさん……」


 不意に呼ばれて今度は遥の心臓がどきりと大きく脈打った。


「春巻き美味しいね」


 遥の目が点になる……そして一度目を伏せ暫く何事かを考えた後に、地の底から湧き上がって来るみたいに禍々しい口調で有る事実を告げた。


「スーパーのお惣菜よ」

「え?」


 中華料理は比較的特異な母だったから、手造りと信じて疑わず、良かれと思って褒めた凛だったが実はスーパーのお惣菜だった事を告白されて立場を失い、わずか五十センチ程度しかない二人の距離が光年単位に広がった様に凛は感じた。そして広がる気まずさを吹き飛ばす方法をひねり出すために彼女の思考は全力運転に入っていった。

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