4.神様の気まぐれ

「どうした……?」


 突然声を掛けられて凛はぴくりと体を震わせて反応する。そして、ぎくしゃくした笑顔張り付けてまるで油の切れた機械人形の様にごきごきと言う音が聞こえてきそうな動きで視線を隣に座ってトロンボーンを中途半端に構えた傑に向けた。


「……え、な、何が?」


 あからさまな呆れ顔を見せながら傑はトロンボーンを肩から降ろしスライド先端の石突をとんと床に付けると表情を変えずに凛の視線を受け止めた。


「そのにやにやだよ、何なんだ?」

「……ん」

「ん?じゃねぇ、何が有ったんだ。怒らないから話してみろ」

「それは話したら怒るぞって言う前振りじゃぁ」


 舌打ちでもしそうな表情を作りながちょっと声が震わせ傑は出来るだけ優しそうな雰囲気を前面面に出そうとしているのだがそれが空振りに


「良いから」

「あ、う、うん……」


 自然発生してしまった不自然な距離感が居心地の悪い会話にしてしまっている事に気付いた凜は首を竦めて天井に瞳だけ天井に向けて刹那の時間躊躇ってからおずおずと口を開いた。


「二年の先輩で、柄澤茜さんって言う人に会って来たんだ」


 その言葉に傑はちょこんと首を傾げて見せた。


「その人ね……その、女の子にしか興味ないんだって」

「ほう」


 乾いた返事を返した傑に凛は天井に向けていた瞳をゆっくりと彼に向ける。その視線の先に映るのは同じく乾いた表情の傑がいる。


「……どう、思う?」


 ぽろりと零れる様な言葉を発した凛を見詰める傑の表情は相変わらずだった。そして彼の唇がゆっくりと動く。


「どう、と言われても性的思考は千差万別。俺に何も言う権利は無いと思うが」


 言葉が凛の右耳から左耳に脳を介さずに抜けて行った様な気がした。


「そ、そうなのかな」

「ああ、生物学的に人間はハードウェアとして男と女に一応区別されてはいるが、それに付属しているソフトウェアとしての意思とか思考とか言う物は極めて複雑でとてもじゃないがに分割など出来るもんじゃない」


 傑の言い回しが難しすぎて凛は言葉を絞り出すのに数秒の間を開ける。


「え、ま、まぁそうですよね」


 そして乾いた雑巾から滴り落ちた言葉があまりにも陳腐だったから傑は丸めていた背筋を伸ばし椅子に座り直してからゆっくりと凛に真顔を向ける。


「その辺は凛の方が分かってんじゃないのか?」

「え、なんで?」


 傑の表情があからさまに呆れ顔に変わって行く。そして、自分の事を意外に理解していない凛の心持に気が付いた。


「あのな、凛……」

「え、う、うん」


 噛んで含める様な言い回しで語りかける傑の表情は年上の男性然とした少しとっつきにくそうなものに感じられた凛もまた背筋を伸ばして座り直すとカレン瞳を覗き込む。


「こんな言い方をしたらいけないのかも知れないが、お前はソフトウェアどころかある意味ハードウェアの設定も間違った状態でこの世に送り出された訳だろ。だったら女性にしか恋心を抱けない女性の事は俺より遥に理解出来るんじゃないか?」

「そ、そうかな。でも僕、最近思うんだ……僕って体は女の子だけどやっぱり男の子なんじゃないかって」

「……ふむ」

「だから、分かんないんだ、女の子が好きな女の子の気持ちって」


 そう言って表情を曇らせる凛を見詰めながら傑は目を伏せ小さく溜息をつく。その溜息と共に吐き出した言葉は彼女の心の慰めにはならなかった。


「まぁ、凛の体は神様の気まぐれみたいなもんだからな」

「……気まぐれ…かぁ」


 眉間に皺を寄せながら考え込む凛は『気まぐれ』と言う言葉が刺さってしまったらしい。自分が神様の気まぐれでこの世に生まれて来た存在で、ある意味悪戯いたずら半分の運命を背負わされたと言うのであれば、これから背負しょい込むであろう苦労は少なくとも買ってでもする類のものでは無いというのは明白な事実。気まぐれに踊らされるのであれば逆に開き直ってしまえば良いのかなどとエンドレステープのように思考がぐるぐると堂々巡どうどうめぐりを始める。


「……俺もその類だ。お前の気持ちは分かるつもりだ」


 視線を逸らして小さく吐き捨てた傑の言葉が再び凛に突き刺さる。そうだ、彼の病気はまだ寛解かんかい状態の下に有るだけで治癒が宣言された訳では無い。ある日突然倒れ、そのままと言う事も考えられない訳では無い。そう言う意味で凛の場合は完治の状態にあると言っても言い訳で、不慮の事象が発生しない限り命の保証はされている、少なくとも自分の意思で生きて行く事が出来るのだ。しかし傑はそれを否定されている状態に有る。常に不安と同居している状態で、これが神様の気まぐれだとしたら酷く残酷な立場にあるのだ。


「なぁ、凛……」

「え」


 妙に真直ぐな視線を向けてそう呟いた傑に凛は反射的に返事をした。


「お前、その柄澤さんとか言う子と、少し付き合ってみたらどうだ?」

「は?」

「変な意味じゃない、なんて言うのかな……」


 そこまで言って傑は唐突に口籠る。そして横目で視線を凛に送りながら自分のあごに右手を当てて何事かを考えてる。何か言いたげな表情なのだが適切な言葉が見つからないらしい。聡明で頭の切れる彼にしては珍しい事だったから凛も思わず見詰めてしまうがその視線が痛かったらしく、傑は窓の外に顔を向けてしまった。


「……たぶん、いずれ分かるさ」


 少し掠れた言葉に凛は曖昧に頷いて見せた。陽は少し西傾き、練習に使っている教室が朱に染まる。そして二人の影は床に長く伸びて行った。

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