10.踏み出す一歩は約1センチ

「何やってんだ、お前ら……」


 救世主は突然やって来る。額がくっつきそうなほど近づけながら薄くて突き刺さるような視線を浴びせる今野とその視線を乾いた笑顔で受け止める凛の姿を開いた扉の戸あたりに寄りかかり少し呆れた表情で彼は二人を見詰めていた。


「……す、傑」


 極めて冷静で更に突き刺さるような視線にさらされた二人は瞬時に我に返ってある意味ファンタジーだった世界からうつつの場に引き戻される。カサカサに乾いた笑顔を浮かべながら彼の名前を辛うじて呟いた今野は凛の喉元に伸ばしかけた両手をそろそろと引っ込める。


「合奏始まるぞ、ちゃんと練習出来たのか?」


 クールな言葉は二人の胸を突き抜けて後ろの壁まで貫く程に強力な物だった。昨日の指摘事項のおさらいが出来ていない二人は大いに慌てたがそれは既に後の祭り、合同練習で赤っ恥をかいてすごすごと帰宅する羽目になった。すっかり日も暮れて、満月をバックに校門に向かって歩くてにおいて上手く行くのではないかと。


★★★


 帰宅して夕食を終え、自室に入って机に向かい、何気なくスマホを見ると紗久良からのメールが着信している事に気が付いた。文面を確認すると、母親の現状報告の様な物で、彼女が行っている特訓の成果が徐々にではあるが成果を上げつつあるらしく、母親はとりあえず近所のスーパーで一人で買い物ができる位の会話能力が付いたらしかった。それでも紗久良はまだかなりの不安を覚えている様だったが、凛から見ればそのくらいの会話が出来れば日常生活には支障が無いのではないかと感じられた。もっともそれは自分の英会話能力との比較でしかなかったのだが。


 小さくため息をついてから机に右手で頬杖を突き、スマホの画面を眺めながらぼんやりと思う、紗久良の母が踏み出した一歩目の歩幅は一センチにも満たないのかも知れないが、それは大きな一歩なのではないかと。前進することをやめた時、人は全てを失ってしまうのではないかと。自分が女の子になって命を守ったことは前に進んだのであって、生きる事をあきらめた訳では無い。あきらめさえしなければ、脚を踏み出すことは出来る。そしてその先に居るのは凜の希望、紗久良だった。


「いつか必ず迎えに行からね……」


 スマホを操作して保存している写真の中から一番お気に入りの紗久良の写真をモニターに呼び出すと、凛はそれに向けて微笑みを返す。すうと、彼女も自分に視線を向けて微笑んでくれた様に感じたのは、自分の心に空いたほんの少しの隙間を埋める為なのかも知れないと思った。


★★★


「傑さん……」


 何時もの喫茶店、テーブルを挟んで少しぎこちなく椅子に座る摩耶は春霞の様にぼやけた笑顔を浮かべながらかなり躊躇いがちに擦れた声でそう呟いた。その様子に違和感を感じて読んでいた文庫本から視線を上げてそれを摩耶の方に向けた傑は彼女の異変に気が付いて丸めていた背中を伸ばしゆっくりと体を起こす。


「どうしたんだ、摩耶?」


 口籠る彼女を傑は追い詰めてしまわない様に気を配りながら自分も背筋を伸ばして椅子に座り直す。その動作で空気が少し動いたからだろうか、二人の鼻腔を店内に漂う芳醇な珈琲の香りが擽る。だがそれ以上に傑の感覚を揺さぶったのは彼女の頬を伝った一筋の涙だった。


「うん、その……」


 だが、彼女はあくまで笑顔を崩そうとしない。いや、笑顔が張り付いてしまって表情を変える事が出来ないのかも知れなかった。傑は眉間に皺を寄せ、真剣な表情で彼女を見詰め続ける。何故か言葉が出て来ない。それは彼女の涙の理由を察してやる事が出来ない自分への怒りでもある。


「摩耶……」

「あのね、傑さん、私、時々、ひどく不安になる事がるの」

「不安?」

「うん、あなたが突然、手が届かない位遠くに行ってしまうんじゃないかって……思って」


 その不安の原因になっているのはおそらく自分の体の事だろうと傑には容易に想像がついたと同意に湧き出るのは深い溜息。右手を額に当てながら目を伏せしばらくの間黙り込む。そして再び徐に面差しを上げ目を開いた時に視界に映り込んで来たのは涙を輝かせながら無理やりの笑顔を作る摩耶の顔。それが鋭い矢となって心臓を貫いた様に傑は感じた。


「すまない・・・」


 かける言葉が見つからない、脳ミソが空運転状態でブラックホールよりも重い質量の物質を頭の中に埋め込まれ思考がその中に幽閉されて出て来ようとしないのだ。その呪縛を振り切って何とか開いた唇から出た言葉は飾り気のない本音。


「俺、摩耶の事、ちゃんと、好きだから・・・」


 その言葉に摩耶の瞳は再び涙で濡れそぼる。しかしそれは悲しみの涙ではなくて感動の涙、彼女は傑のちゃんと好き、その言葉に心が揺り動かされたのだ。彼の口から自分のことが好きという思いを聞いたのは今までにたった一度しかない。それが、不安に拍車をかけていたのだ。言葉は発してしまえば泡の様に消えてしまう、しかし心に刻まれたときそれは永遠の存在となるのだ。


 彼女が踏み出すたった1センチの一歩は言葉に裏打ちされていた。それは彼女にとって安らぎと共に踏み出す輝かしくもある一歩だった。

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