9.未来を見ぬく者

「ほぅ……」


 ……と、言う、あんまりにもそっけない答えだったから凛は思わずこけそうになる。


 彼女の視線の前に居るのはサクソフォーンをネックストラップに繋いで首からぶら下げながらリードを口に咥え、譜面台を組み立てている今野の姿だった。その彼に向かって凛は昨日、莉子とデートした事を少し得意げに言ってみたのだがそれに対する反応が薄すぎて肩透かしを食らった格好になってしまったのだ。


「あ、あの、何とも思わないの?」


 凛の言葉に今野はゆっくりと彼女に視線を向けると、徐に口を開く。しかもその表情は極めて冷静で落ち着き払ったものだった。


「何とか思ってほしいのか?」


 質問に対して質問で返された凛は立場を失ってその場に立ち尽くす。


「女の子同士の付き合いに俺が口出しする必要なんかないと思うが、しかも相手が凛だったらなおさらなんじゃないか」

「え、そ、そう……」

「ああ、それが何か?」

「ん、いや、別に」

「なんだよ、おかしな奴だな……」


 そこまで言ったところで今野は凛が何を意図していたのかようやく気が付く。


「あのな凛、そろそろ自分が元男だった事に拘るのはやめた方がいいと思うぞ」

「べ、別の拘ってなんか……」

「過去は過去、変な引き摺り方すると人生無駄にしそうな気がしないか?」

「そ、そうかな」


 この高校に入学して担任の教師から自分が元は男子だった事をクラスメイトに話すか話さないかと言う打診が有った時、凛はその答えを保留して皆には自分の過去は伝えていない。顔つきも体つきも完全に女子にしか見えない状態で、声変わりもしなかったから、自分の素性を知っている者が言いふらさないバレる事は無い筈だ。


 ただ、もしその話が広まってしまったらその時は誤解を防ぐために自分の口から今迄の経緯いきさつを話す覚悟はしているが、このまま逃げ切れることを祈っていることも事実だった。そして、今の今野の言葉がぐさりと胸に突き刺さる、過去を引き摺る……自分はいまそんなことをしているのだろうかと心に不安が過る。


「凛、俺、思うんだけどさ」

「え、な、なぁに?」

「お前、物凄く良い女になりそうな気がするんだが」

「へ?」


 きっちりとした七三分けだったヘアスタイルは高校に入学してから少しふんわりとしたものに変わり、中学時代からの印象が少し変わりつつある彼の姿に今気が付いて凛は何故かドキリとする。


「見た目がどうとかいう意味じゃなくて、性格とか文化的な物に対する取り組みとか」

「え、あ、ああ……」

「なんと言っても婚約者が女の子って言うところが素敵じゃないか」


 そう言った瞬間、今野の瞳の奥で何かが輝いた様に見えたのは凛の錯覚だったのだろうか。


「す、素敵?」

「ああ、愛には国境も人種も性別も無い。ましてや二人の距離なんてカーテン一枚程の障害になることは無い、それを身をもって証明している凛はいい女だと思うぞ」


 話の例えが壮大過ぎて凛にはピンと来なかったが少なくとも莫迦にされている訳では無い事は理解することが出来た。が、そこまで言ったところで今野の態度が急変して凛は大いに慌ててしまった。


「それに引き換え俺なんかな……」

「ん?」


 首をかくんと下に向けて加えたリードを噛み締めながら絞られる雑巾の様な野太い声でこう呟いた。


「……俺なんか、莉子さんと」

「り、莉子と?」


 今野はゆらりと立ち上がり胸の前で右手を握り締め天井に向けて徐に視線を移すと全身を震わせながら言葉を吐き出す。


「手も繋いだことないんだぞ」


 氷のような冷たい沈黙が訪れ、時間が静かに止まって行く。だが、その沈黙を破り凛は『ぶっ』と吹き出した。そこに今野の視線が突き刺さり、あまりの痛さに凛は口を右掌で抑えながら必死で笑いを堪えるが、肩の震えが止まらなかった。


「ああそうだろうよ、笑いたかったら笑えばいいさ。どうせ、俺と莉子さんの仲なんて吹けば吹っ飛ぶ様な希望の光が極めて微細なかんけいだから……」

「そ、そこまで言わなくても」

「莉子さんが俺と付き合う事を承諾してくれたのはまぐれ当たりのビギナーズラックみたいなもんじゃないか」


 今野は凛にずいっと一歩歩み寄ると凛の両肩に手をかけて思い切り握り鼻と鼻がくっつきそうになる距離まで顔を近づける。


「なぁ、凛……」

「な、なんだよ」

「おまえ、紗久良さんとキスしたことあるのか」

「……え?」


 凛は思わず視線を逸らす。その態度にから二人はキスの経験が有る事を察する。


「有るんだな」

「そ、それは、あの、その……」


 しどろもどろにその質問をやり過ごそうとする今野は彼女のその態度から察した事が確信へと変わる。


「有るんだよな」

「だ、だから、その、な、落ち着け、今野」


 紗久良との関係はキスどころか体の関係だったりするから彼の質問に対しては只管シラを切りとおすしかなかったから引き攣った笑顔を張り付けて極めて当たり障りのない一般論を展開して見せた。


「と、時が来れば…だよ、なっ?」


 しかし彼は目を細めるとその奥から滲み出る視線を凛に向けつつ唇を尖らせて見せる。


「その時ってのは何時なんだよ」

「そ、そんな、具体的な事を聞かれても」

「その前に関係が破綻するかもしれないじゃないか」


 正直、彼の言葉にはある程度の説得力が有る。引っ込み思案で、今こうして凛に絡むくらいしか解決策を見出せないのだから、莉子が呆れて見放す可能性が無いとは言えない。凛は祈る、二人の関係が進展する事を、そして、この状況から早く解放される事を。

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