3.孤独の時に誓う…

腰を屈めて椅子に座ったままトロンボーンのケースからマウスピースを取り出して、一度息を吹き込んでからそれをマウスピースレシーバーに差し込み、楽器を肩に乗せてスライドを何度か動かす傑。しかし、音を出す事は無く彼は楽器を肩から降ろしてスライドの先端の石突きを床につけて背中を伸ばして視線を真直まっすぐ凛に向けた。


「彼女、今日はなにしてる?」

「あ、なんか、買い物に行くって言ってたけど」

「一人でか?」

「え、う、うん……」


凛は曖昧な返事をしながらちょこんと頷いて見せた。その様子を見ながら傑は大きく溜め息を吐き出してから額に手を当てて静かに目を瞑る、それはまるで自分を見ている様に感じられた故の仕草だった。そして、乾いた沈黙が二人に訪れた。


★★★


春の風は暖かでコートを脱いでも寒さを感じる事は無かった。紗久良は渋谷の街を一人でフラフラと歩きまわる。以前、両親に連れられてここを訪れ楽しいひと時を過ごしたことがふと脳裏をよぎったが今、この街を歩く自分は一人きり。妙にすかすかする感覚に心が萎んでしまいそうになる。眼鏡の奥で動く瞳は焦点が有っていない様に感じられた、そんな雰囲気を醸し出す女子に目をつける男は多くて、彼女は既に三人の男に声を掛けられたが英語でまくし立ててそいつらを追い払っていた。


「ふぅ……」


何気無い溜息が無味乾燥な東京の街並みを象徴している様で気温とは正反対に心が凍る様に感じた。


「……帰ろっか」


ショップの紙袋を沢山ぶら下げてとぼとぼ歩く自分の姿が脳裏に浮かんでそれがなんだか心に突き刺さる。そして、ふいに浮かんだのは凛の顔。もしも隣に彼女が居たらこんな気分にはならない筈だ。一人で出て来てしまった事を少し後悔しながら凛の唇の感触を思い出す。


「ここにはこんなに沢山人が居るのに二度とすれ違う事が無い人も居るのね」


喧騒の中で感じる孤独は一人で感じる孤独よりも重くて心を閉ざす切欠になるのかも知れないと紗久良は思った。そして、間も無く沈む夕日に長い影を引きずりながら駅へと急いだ。


★★★


「か、買い込んだね……」


大量の紙袋を目の前に凛は困惑の表情を見せる。


「ま、ほとんど両親とあっちの友達へのお土産だけどね。飛行機に持ち込めない分は段ボールにでも詰めて送るしかないか」


紗久良も少し困った様な様な表情を見せてはいるがそれほど深刻な問題とは捉えていない様で、最後は凛に押し付けようという魂胆が見えみえだった。


「紗久良、こっちにいられるのは二週間だったよね」

「え、うん、そうだけど」

「……そっか」


そう言って少し表情を沈ませる凛に紗久良はゆっくりと視線を向けるとそのまま唇を重ねる。一時帰国の拠点にしている凛の自宅の亡き父親の部屋でベッドに腰掛けながらかわすキスに少し後ろめたさを感じながら二人は横向きでベッドに倒れ込む。そして暫くしてから唇を離し静かにじっと見つめ合う。


「ねぇ、紗久良」

「……ん」

「ひょっとして……寂しい?」


耳の奥がつんとする様な沈黙が訪れた後、紗久良は小さく頷いて見せた。それに合わせて衣擦れの音が響く。じんわりと潤っていく紗久良の瞳が答えを物語り凛の胸が締め付けられる。もしも、自分が男の子のままだったら、それまでの関係は子供のころの淡い思い出となって昇華され、こんな思いをさせる事は無かったかもしれないと自分を責めては見る物のそこから見出せる答えも解決策も無い。


時が過ぎ去るのを待つしかない……大人になるまでの時間は永遠の様に長いのかも知れないがその間、孤独と共に歩んだ経験はは成長の糧になるかも知れない。それに耐えられればの話だが。凛はちょこんと紗久良の頬に再び口付けしてから小さな声でこう言った。


「あの、さ……紗久良だけ帰って来る事って、出来ないのかな」

「え?」

「一緒に暮らさないか」

「凛君と、一緒にって……」

「うん、ここで、僕の家で」

「ここで?」


紗久良はそのまま口籠り、まっすぐな視線を凛に向けたまま何も言わない。


「僕のおかぁさんは反対しないと思うよ、こうして部屋だって空いてるし。元々戸建てに二人暮らしはちょっと寂しかったしね」


にっこりと微笑んで見せる凛を見ながら紗久良の唇が小さく震える。そして何か言いそうになったのだがその言葉を無理やり飲み込んだ。再び戻る沈黙の中で二人は視線を合わせたまま沈黙に身を任せ、その後唇を震わせながら出てきた紗久良の言葉は意外な物だった。


「……ごめんね、凛君。今はそれは出来ないの、私のお母さんがね……私がつてないとダメみたいで」


紗久良の言葉に凛は眉間は心配そうな影をうっすらと浮かべ静かに不安の表情を見せる。


「え?」

「言葉を覚えるのに結構苦戦してて未だに日常会話もおぼつかなくて外出は必ず私が付いて行ってあげてるの」

「お父さんは?」

「日本で暮らしてたみたいに夜遅く帰って来る事は無いんだけど、休日以外は家に居ないから私が居なくなったら一人ぼっちになっちゃうわ。ひょっとしたら引き籠っちゃうかも……だから…」


思わずこぼれる溜息に込められた思い、それは悲しさと紗久良への恋心。凛は紗久良を抱き寄せるとその暖かさを確かめる。体温と心臓の鼓動が伝わって来ると同時にその華奢な体に改めての驚きが走る。


「でも、とっても嬉しいわ、凛君、大好き。こうやって抱き合ってるとほんとに安心出来る」

「……紗久良」


別々の時を過ごす間にしなければならない事は膨大な量になるのだろう。寂しさに浸り後ろ向きになるよりは前向きに歩み、いずれ来る二人きりの時にふさわしい大人になろうと額を合わせながら凛と紗久良は誓った。

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