第2章:紗久良の思い

1.さくらの国で・・・

イギリスの学校制度は小学校と中等学校の2層構造をしており、小学校を卒業した11~16歳(または18歳)までの生徒が通う学校をSecondary schoolと呼ぶのだそうだ。


そして、学校によって期間や時期は異なるが試験等々忙しいスケジュールをこなした後のリフレッシュ期間としてSpring Break、つまり春休みが設定されている場合が多い。多くは二週間から四週間設けられているのだそうで、紗久良の通う学校もこれに漏れず春休みに入るのだそうだ。そして彼女はそれを利用して帰国すると言う。


そんな内容の連絡メールが届き文面を読みながら凛の表情はとろとろと溶けて行く。ほぼ一年ぶりの再会に心が躍って出される彼女の唇の温もりと滑らかな肌の優しさ、そして甘い香り。女の子の体をしているとは言え男の子として育った期間が長いから思考はまだまだ男の子、だから真っ先に考えてしまうのは体での触れ合いになってしまうのは仕方が無いと言えなくはない。年齢を重ねて精神的に落ち着けばそれも下火になるのだが、若さは血気を優先してしまう。だが、それが愛情を形作っていることも否定出来ない事実だった。


★★★


羽田空港到着ロビー。凛は出口から吐き出される乗客達に目を凝らし、その姿を見付ける為に出迎えの人々を掻き分けながら兎に角前に出ようと足掻あがいてみたが、その壁は堅牢で中々前に須進事が出来なかった。行楽シーズンからは少し外れた時期ではあるのに日曜日の午前中と言う時間帯のせいなのかロビーはごった返していた。


凛は何とか人混みの壁を制覇して乗客が見える場所まで出て来ると、きょろきょろと周りを見渡しつつその人を探す。勿論、目的は紗久良以外には居ない、なかなか現れない彼女にひょっとしたら見逃してしまったかと焦りを覚えながらもそこは辛抱強く待ち続ける。その努力は報われて紗久良らしい人影を見つけて凛はその方向に向かって歩き出す。自然に頬が緩み紅潮し気分がむくむくと盛り上がっていくのを必死で隠しながら歩を進め何故か彼女の後ろに回り込む。


一年と言えば人の個々の主観によって長いか短いかが決まる時間ではあると思うが、凛の感覚は『一日千秋』。中国の詩人であるぼくが自らの詩『秋夕しゅうせき』の中で用いた言葉『一年之いちねんの計在於けいざいおうしゅん一日之いちじつの計在於晨けいざいおうしん』、つまり『一年の計は春にあり、一日の計は朝にあり』これが『一日千秋』となり、待ち遠しい時間や出来事を待つときの感情を表す意味となった。凛にとってこの一年はまるで蝸牛かたつむりの歩みの様にもどかしくじれったく感じられていた。そして、目の前に立つ彼女が待ち焦がれた紗久良である事を確信するとその耳元で小さな声で囁いた。


「お・か・え・り」


不意に言葉をかけられて驚いたのか紗久良は体をぴくんと震わせてからまわりをきょろきょろ見渡して、後ろに人の気配を感じてぱっとその方向に向き直る。そして、目に飛びこんで来た凛の姿を見て表情を緩ませる……が、当の凛は彼女の顔を見て緩んだ表情をじわじわと曇らせて行く。


「な、何よ久しぶりに会ったって言うのにその顔は」


同じく紗久良の表情も訝しげな物に変わって行く。


「……紗久良、なんか、物凄く痩せたね」


腫れ物に触るような口調で言葉を絞り出した凛の顔を見ながら紗久良は無理やり笑顔を取り繕うと元気をアピールする様、こういって見せた。


「どう、見違えるくらい魅力度アップしたでしょ」


どう見てもどの角度から見ても健康的には見えない無理やりの笑顔に凛も苦笑いで応える。そして苦笑いは真剣な瞳に変わり彼女の頬に右掌を当てながら凛はしみじみと呟いた。


「……短い時間しか無いけど、ゆっくり休んで行ってよ」


紗久良は目頭に熱い物を感じたがそれは心の中にしまい込み、再び無理やりの笑顔を見せながら小さく頷いて見せた。


「ところで紗久良、どこに泊まるの?」

「あら、お母さまから聞いてない?」

「……え、何を」

「だから、滞在中は凛君の家に泊まるって」

「へ?」

「宜しくね、凛君」


さっきとは全く違う心からの笑顔を見せた紗久良を凛は少し不思議そうな表情で見詰めた。


★★★


滞在中の紗久良の宿屋は凛の自宅、亡き父親の部屋を使う事となった。彼女はベッドにどっと横になると両手足をうんと伸ばし染み入るような声でこう叫んで見せた。


「あ~~~もう、やっぱり日本って素敵」


凛は紗久良のキャリーバッグを持ちながら再び苦笑いを見せる。


「そ、そんなに?」

「そうよ、街は奇麗だし電車は時間通りに来るし食べ物美味しいし便座はあったかいし」

「便座はまぁ別として、イギリスって食べ物がおいしくないって言う噂は確かに聞くよね」


何気なくそう言った凛に紗久良は寝転がり、両手足をだらんと伸ばしたままで呟いた。


「あ、でも、最近はそうでもないみたいなのよ。多様性もクオリティも向上してるし一昔前の味がしない料理も減っるし」

「ふ~~~ん」

「ソースだってクレーヴィーとかミントとかヨークシャーとかあるけどそれぞれ美味しいし」

「ほう……」

「ただね」

「ただ?」


凛の返事に紗久良は眉を顰めて見せる。


「フル・イングリッシュ・ブレックファーストは日本人には重いわね」

「……なにそれ?」

「ソーセージとベーコンと目玉焼き、それにトマト、キノコ、ハッシュブラウン、ブラックプディング(血を含んだソーセージ)なんかが一緒に出て来る朝食よ」

「あ~~~それは確かに朝一だと重いかもね」

「ご飯とお味噌汁が懐かしくて」

「じゃぁ、明日の朝ご飯はご飯とお味噌汁と塩鮭かなんかにしようか」


紗久良はにっこりと微笑んで見せる。


「私にも手伝わせてね」

「うん、一緒に朝ご飯作ろう」


そう言って二人は微笑みながら見詰め合い、ふんわりと唇を重ね、お互いの体温を交換した。それは心の交換でも有った。

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