6.ファーストキスに平手打ち

「り、莉子りこさぁ~~~~ん」


苦闘の表情を浮かべながらない脚を無理矢理上げてひたすら前に進み続ける今野は全く疲れを知らず自分からどんどん距離を置いて走り去る莉子の姿を必死で追いかける。しかし、バスケガールの彼女とサクソフォーンボーイの体力差はそう簡単に埋まる事は無く、更に少し太めの今野は一キロにも満たない距離を走っただけで息も絶え々で吹き出す汗が冷たくも感じられた。


吹奏楽と言うのは有る意味スポーツで演奏中に常に楽器に向けて息を吐きだし続けなければならないのだからそれなりに体力は必要だ。だから部活の分類的には文化部に属してはいるが普段から学校のグラウンドを走ったりして体力作りに励む者も多く、運動が出来る部員は結構多い。


しかし、二時間も三時間も走りっぱなしだったりするバスケ部員の体力とは比較する事は間違いなのである。勿論、それは今野も十分承知しているのだが、今は激しい後悔に襲われている。なぜ、莉子の朝練に付き合おうなどと思ってしまったのか。しかも通う高校が違うから朝は新聞配達員並みに早くて夜型人間のである彼は眠気とも戦わなければいけない羽目に陥ってしまっているのだ。


「は、はぁはぁはぁ……ま、まってぇぇぇ~~~」


あんまりにも恥ずかしい声を発するものだから先を走る莉子は警察にでも通報されたらどうしようかという思いで仕方なく足を止める。そして、右手で額を押え少し俯きながらはぁっと小さなため息を一つ。それから暫くして背中に今野の生き絶え々の気配を感じるとゆっくりと彼に向って振り向いた。


「あのさぁ、今野……」

「は、はっ、はぁはぁはぁ……はい、なんでしょう莉子さ、はぁはぁはぁ……」


彼に対する莉子の表情がだんだんと険しくなって行く。実は莉子がこうして立ち止まって振り向くのはこれが初めてではない、今朝走り出してから既に五回目でしかもその走破距離は二キロにも満たなかった。そしてその表情の意味するところは、全く練習にならないというほんの少しの怒りが混じる感情から来る物だった。


ただ、相手が今野と言う事で素人とは分かりつつも練習に混ぜてしまった自分に対する戒めの意味も含まれて居ない訳では無い。分かり切った事では無いか、普段から長時間全力疾走するような運動をしている自分と、ほぼ動かないこいつを比べて見れば。やんわりと断るのが筋で有って、承諾してしまった自分にすべての責任が有るのは火を見るよりも明らかでどちらかと言えば、バスケ部の練習が終わってからの整理運動がてらに自分の方から誘うべきではなかったかと。


そう思うと今野に対するというよりも自分に対する怒りとも蔑みとも誹謗中傷とも取れる複雑な感情が沸き上がり、思わず反省モードに突入してしまったりすると同時に彼に対してにっこりと白い歯を出して微笑んで見せた。


「ねぇ今野、今日はこれくらいにしよ」


練習の切り上げを宣言した莉子を今野は残念そうな、でも、何となくほっとしたような表情で見詰め直す。


「いきなり激し運動は逆に体に良くないしね」

「は、はぁ……」


優しく微笑む莉子だったがその後ろ側に隠れている不満を感じた今野はすまなそうに頭をポリポリと掻きながら背中を丸めて上目遣いに送った視線に彼女の眉尻がピクリと動く。


「……こんなこと言うと差別発言になるかも知れないけど、人間ってやっぱり向き不向きって有るんだよ」

「ん、ま、まぁ、そうかも知れないね」

「大きく分けると体使うのが得意な人と頭使うのが得意な人」

「はぁ……」

「今野って、どっちかと言うと頭使うのが得意なタイプじゃん」

「そ、そうかな」


そう言われて今野は少し自信の無さそうな弱気な表情を見せる。


「そうよ、私から見れば今野はバリバリに頭が切れる天才肌に見えるもの」

「え、あ、はぁ……」

「頭良い今野、好きだよ」

「え?」


後ろで手を組み少し媚びた表情を見せながすり寄って行き莉子の体が今野に触れた瞬間、甘い汗の香りを感じた彼の心臓は体から飛び出してその辺を走り回るんじゃないかってう位派手に脈打った。


「理知的で優しい今野、大好き……」


少し鼻にかかった甘ったるい声で耳元で囁かれた今野はその場で直立し全身を真っ赤に染めて完全に固まった。告白は劇的だったがその後の交際は何と無く的な雰囲気を引きずっていた二人、だから今野は莉子からはっきりと好きだと言われた事は無い。それが、今、普通の好きではなく『大』と言う形容動詞が付与された形で彼女から発せられた物だから震える心を抑えきる事など出来る訳など無く今野は思わず莉子を抱き締める。


「り、莉子さん!!」


ほぼ初めての女の子の香りに今野の理性はがらがらという派手な轟音と共に崩れ落ちて行く。そして、彼女の顔を暫く見詰めた後、ゆっくりと顔を近づけ唇を重ねようとした瞬間、左頬に莉子の右掌が飛んでくる。激しい衝撃と突き刺さるような痛みが突き抜けて、今野は一歩後ずさり、正気を取り戻すと頬を自分の掌で抑えながら莉子に情けない表情を剥けながら視線を送る。それに応える様に彼女はにっこりと微笑んで見せる。


「あのね、まだそこまでじゃないからね」


笑顔ではあるが、莉子の態度は少し怖かった。


「……そ、そうですよね」


それを見ながら呟いた今野の消え入る様な言葉の後、莉子もぽそっと呟いた。


「ま、そのうちね」


そしてちょこんとウィンクして見せた莉子の顔を見ながら今野は顔を真っ赤に染める。そして安どのため息を一つ。それは嫌われた訳では無く、これからに希望を持っても良いと言う宣言に聞こえたからだった。ふんわり吹き抜けた早朝の春風は、今野の体をほんのちょっとだけ冷やしてくれた様に感じられた。

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