5.ラブレター

「傑…君……」


そう言ってから摩耶まやはテーブルの上で組んだ掌に一度視線を落として少し考えた後、視線だけをゆっくりとテーブルの向かい側に座る傑に向ける。


「ん?」


その呼びかけに傑は向き直る事無く声だけで返事をする。その素っ気無い反応に摩耶はちょっと戸惑いを見せるながら唇を開く。


「……あの」


珈琲モカの深いエスプレッソの余韻と、チョコレートみたいな甘美なアロマが絶妙に交じり合う官能的で魅惑的な調べと高原の風が抱く清涼感と標高の高い茶畑から湧き上がる花々を感じさせる紅茶ダージリンの香りが溶け合って二人の隙間に流れ込む休日の喫茶店、ファストフード店のざわざわとして少しとげの有る雰囲気をあまり好まない傑が休日によく訪れる絶滅危惧種と化しつつある個人経営の純喫茶の店内は客達の年齢層が高いからかしんと静まり返り、空間を満たしているのは店主の柔らかな人柄だった。


「え~~~とね……」


何か煮え切らない摩耶の様子に少し違和感を覚えた傑は読んでいた本から視線を上げて、それをおもむろに彼女に向ける。


「どうした?」


限られた休日と言う時間の中で恋人を目の前にしているにも拘らず本を読むという行為がどうなのかと言う議論は有るかも知れないが、傑はそこまで摩耶に対して心を開いていると言う表れでもある。


「あ、ううん、何でもない」


そう言いながら浮かべる不自然な笑顔は摩耶の心持が何でもない訳が無い事を如実にしている事が見え々だった。傑は読んでいた本を閉じるとソファーに座り直すと真直ぐな視線を彼女にめける。その視線に戸惑う摩耶は思わずその視線から逃げる。


付き合い始めて一年以上の時が経ち、親密さが深まっているのかと思えば実は進展度合いはまるで蝸牛かたつむりが歩む様。更に中学を卒業し、別々の高校に進学してしまった関係で会えない時間が更にその歩みを遅くする。ぎこちなさがつのる心の捌け口は今のところ見つからない。もしかしたら臨界を超えた風船みたく心が弾けてしまうかも知れない怖さを覚えながらも、彼を見詰めているだけでその思いはさざ波の様に引いて行く。


しかし、若さゆえの揺らぎは不安を纏い、再び心を覆ってしまう……


宙に浮いているような表情の麻耶を見詰める傑の眉尻がピクリと動く。そして、ショルダーバッグの中からレポート用紙と筆入れを取りテーブルに広げ黙ったままそこに視線を落とすとボールペンで何かをしたため始める。無言で何かを書き進めるその姿を麻耶はきょとんと見つめ続けた。


一心不乱と言う訳では無いが傑は無言でペンを走らせる。窓の外を走り去る車の音や店内の客がひそひそと話す声、カップと皿が触れる音。静かな店内ではあるが注意を澄ますと意外とたくさんの音が聞こえるから、耳の奥がつんとする静寂に包まれる事は無い。


傑の筆が休まることは無く、左手で頬杖を突きながらするすると呪文でも唱えている様にレポート用紙に書き込んで行き、あっという間に三枚の用紙を文字で埋め尽くすとちらりと麻耶に視線を送った後、用紙を束からバリバリと剥がし、丁寧に折ってから再びショルダーバッグの中から封筒を取り出すとその中に折り畳んだレポート用紙を収める。更にフラップの部分に糊を着けて丁寧に折り、繋ぎ目の部分に律儀に『〆』を書き込みそれを暫くの間無言で見詰める。


「え、えっと……」


彼のその行動の意図をくみ取り切れず、麻耶は少し引き攣った笑顔を見せる。その様子に気付いたのか傑は徐に顔を上げると封筒を彼女に差し出した。


「これ……帰ったら読んで欲しい」


摩耶はそれを受け取るとまじまじと眺めてから色々と湧き出す疑問まみれの視線を彼に返しながらこう言った。


「今、読んじゃダメなの」


彼女の言葉の後に不自然な沈黙が流れる……そして、傑が重々しく口を開いたが、発せられた言葉は至極しごく短い。


「ああ……」


目を細めてかなり躊躇いがちな言葉と言うよりは溜息に近いそれを聞いた摩耶はぽかんと目を大きく見開く。


「どうして?」


摩耶の突っ込みに傑は悪戯を見透かされた子供の様に彼女から顔を叛けながらぼそりと一言呟いた。


「どうしてもだ」


そして、呟いた後にほんのり頬を染めた彼の様子を見て摩耶はすべてを察した様だった。


「うん、じゃぁこれは家帰ってから一人で読むね」


封筒を胸に抱いて、にっこりとほほ笑んで見せる摩耶を横目でちらちらと見ながら、何かを考えるふりをしながらその意図を必死で隠そうとする彼の姿が妙に可愛らしく見えた摩耶は今度は封筒を口元に当てながらくすくすと笑いだす。傑の頬はほんのりとした赤からまるで完熟した林檎の様に真っ赤に染まる。


少し斜めな春の光が差し込む喫茶店の窓際の席で、ゆっくりとした休日の時が流れて行く。傑はバツの悪そうな表情のまま頬杖を突き外の風景を眺めているが、心はしっかりと自分のほうを向いている感覚がじんわりと感じられ、摩耶の心にも春の陽光に抱かれたような優しさが伝わって来る。ティーカップを持ち上げて口に運び少し冷えた紅茶を口に含むと華やかな香りが溢れ、その中に身を浸したい様な気分になった。


「ねぇ、傑君」

「ん?」

「次にお休みは少し街を歩いてみようか」


摩耶の提案に傑はゆっくりと彼女の方にまだ少し赤味の残る面差しを向ける。


「……どうして」

「うん、だいぶ温かくなったし、それに……」

「それに?」

「花粉の季節が来ちゃったら外に出たくなくなるじゃない」


そう言って無邪気に微笑んで見せた摩耶を見詰めながら傑も微笑んで見せる。


「そうだな、摩耶はかなり花粉症酷かったもんな」

「うん、顔が無様になる前に、ちゃんと外歩いてデートしましょ」

「ああ、そうしよう」


柔らかな空気が二人を包む。まだまだぎこちなさは残る物の彼と彼女の距離は確実に縮まりつつあった。




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