3.どきり……

入部届けに必要事項を記入して顧問の教師に提出し、凛は再び吹奏楽部への所属となった。ただ、これを決断するまでに彼女には少し時間が必要だった。何故ならば、この高校は有名な進学校で有るのだが、凛はかなりすれすれの滑り込み状態で入学したと言う経緯があって、部活と勉強を両立出来るかどうか自信がまるで無かったからだ。授業も既に始まっていて、その進捗や課題がかなりヘビーだったから二の足を踏んだのだ。


これを機会に勉強一本に生活を絞ろうかとも思ったのだが、傑に無理矢理引っ張り込まれるような形での入部手続きとなったのだ。傑は余裕の合格で勉強にもかなり余裕がある状況だったから、入学早々から吹奏楽部にも顔を出し活動を開始していた。


「は、勉強一本?止めとけ、そんなつまらん生活したら煮詰まるに決まってる」

「え、で、でも……」

「受験勉強は楽しかったか?」

「う……うぅん」

「似た様な日々が三百六十五日掛ける三年続くんだぞ、その環境で人間が煮詰まらない訳ないだろうが」

「うっ……うぅぅぅぅ…」


彼女の事を思っての発言だったのだろうが、彼の性格だからそれはほぼ脅迫に近い口調で、不安を募らせるような演出が壁ドン状態で行われた物だから凛は反論する事も出来ず、再び半ば強制的に中学時代と同じ『ユーホニアム』を手にする事となった。しかし部室に顔を出し、部員の歓迎を受けた時、凛の気持ちがふわりと軽くなった様がした。そして、部室まで連れてきてくれて横に立っている傑に何となく感謝の気持ちが芽生える。これが彼の最初の男の友情の発現はつげんだったのかも知れなかった。


・‥…━━━★・‥…━━━★・‥…━━━★


「あら、随分ご機嫌ね」


リビングのローテーブルで教科書や参考書、それにノートを広げ、ここ最近はかなり辛そうな表情を見せていた凛が鼻歌交じりにシャーペンを走らせている姿を見て、母も少し明るめの声で話し掛ける。進学させる学校の選択を間違えたかとも思ったのだが、何か吹っ切る切欠でも出来たのかと期待が込められていたがその返事はそっけない物だった。


「うん、まぁ……」


一瞬顔を上げただけで再びノートに視線を落とす彼女の姿を見詰めながら母の表情には再び不安の影が蘇る。その様子を察したのか凛は再び顔を上げるとにかっと笑って見せた。


「そうだ、おかぁさん」

「……なぁに?」

「僕、また吹奏楽部に入ったから」

「あら、そうなの。でも、どうして、結構迷ってたじゃない」

「うん、傑先輩が誘ってくれたんだ」

「へぇ 、そうなの……ところで…」


母の口調がちょっと改まったものに変わったので凛は不思議そうな表情を見せる。


「傑先輩って言うと怒られるんじゃなかったの」

「……あ」


凛は右掌で口を押え、しまったという苦笑いを見せる。それにつられて母も笑顔を見せながら思った、まぁ、何とかなるのかなと。


「でもまぁ、あんまり無理はしない事ね、体壊したら元も子もないからね」

「うん、気をつけるよ」


そう言いながら見せた凛の柔らかな笑顔を母はかなり久しぶりに見た様な気がした。そして、追い詰められてた時は終わりを告げたのだと信じたかった。凛はこれから平凡でかつ輝く思春期を生きるのだと。


・‥…━━━★・‥…━━━★・‥…━━━★


「うげ~~~」


全く音の出ないユーホニアムを抱き抱えながら凛はがっくりと肩を落として椅子に座り込む。その様子を横で見ていた傑はやれやれと言う視線を彼女に向けるがそこに冷たさは感じられなかった。むしろ温かく見守っている、そんな雰囲気が感じられた。


「しょうがないだろ、ブランク有るからな。マシな音になる迄一ヶ月くらい掛かるだろうな」

「え~~~」

「俺もそうだったよ」

「傑も?」

「日々の練習ってのは大切なもんだって痛感した」

「地道に練習するしかないかぁ」


床にどろどろと滞留しそうな程に重くて濃い溜息と共に凛は言葉を吐き出した。それを見ながら苦笑いを浮かべ、傑は慰めの言葉をかける。


「ま、付き合ってやるから安心しろ」

「……うん」


中学時代は先輩後輩の関係だったから傑に対しておのずと敬語で話していた凛だったが、ここ最近はかなりタメ口が出る様になり、二人の関係はゆっくりと変わりつつあった。氷は緩やかに溶けつつある。


「さて、今日はこれ位にしようか、引き上げるぞ、凛」

「え、あ、うん」


相変わらず少し強引なところのある傑だったが、刺々しさは徐々に無くなりマイルドになりつつある。この辺は摩耶の手柄なのだろうか。彼女は結局別の高校に進学したのだが、そこでも同じく吹奏楽部に所属してクラリネットを頑張っている。そして傑とは週末にデートを重ねている様で交際は順調に進んでいるらしい。はにかみながらも、少し嬉しそうにその日の出来事を話す傑の姿が凛には妙に可愛らしく見えた。


しかし、それとは裏腹に紗久良とは会えない寂しさが込み上げてくる事も有り、多少の嫉妬を覚える自分が可愛らしく感じたりする変な思いへの恥じらいで身を焦がす事も有るのだ。二人は楽器の手入れを終えてケースに仕舞うと倉庫に戻し、部室を後にする。そして、揃って玄関に出ると凜は早春のまだ高度の低い夕陽をもろに目に入れてしまい、思わず右手の甲を当てて日差しを遮る。


「うわっ!!」

「どうした、大丈夫か、凛?」

「え、う、うん、夕日をもろに見ちゃって」


瞬間的に目を閉じた物の残像がちかちかと目の奥に残り涙が少し滲み出す。その瞬間、右手を掴まれた感覚で凜はちょっとだけ目を開けると、飛び込んで来たのは息がかかりそうな位アップになった傑の心配そうな面差しだった。その表情に凛は思わずドキリとして頬を染める。


「少し目を瞑ってろ、夕日、大した事ないだろう」

「……う、うん」


今の心臓どきりの意味が良く分からなくて凛は少し狼狽する。甘酸っぱいどきりの意味を心の中でループさせてみたが、その答えに辿り着くことは出来なかった。ただ、麻耶の顔が思い浮かんだ事にヒントが隠されている様には思えた。

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