第1章:それからの物語、始まりの春

1.合格発表

「あ、おかぁさん……」


高校受験の合格発表会場で草薙凛くさなぎりんはスマートフォンを耳に当てながらほっとした表情を見せる。張り出された合格者の受験番号に彼女の番号が有ったのだ。


「……そう、良かったわね、凛」


返ってきた母の声にも安堵の雰囲気が感じられた。受験体制後半の凛は死に物狂いと言うか鬼気ききせまるものが有って正直、母親の遥かでさえ近寄りがたいオーラを発していたのだ。はっきり言って高望みしすぎたという後悔は有った物の所属していた吹奏楽部の前部長、佐藤さとうすぐるとその恋人で同じく吹奏楽部部員の佐久間摩耶さくままやが発するプレッシャーとロンドンで暮らす婚約者、飛鳥馬紗あすまさに対する意味不明の見栄が混然一体となって心の中で渦巻き、失敗イコール万死ばんしあたいする的な錯覚を生み出して彼女を追い詰めたのだ。


しかし、持ち前の火事場かじば馬鹿力ばかぢからはその本領を発揮して目出度めでたく合格の切符を勝ち取ったのだった。はっきり言って、その場でへたり込み、根っ転がってしまいたい気分だったが人目の関係でそんな事をする事も出来ず、それに、入学手続きもしなければならなかったからそんな事をしている暇はない。凛は母への報告を終えるとスマートフォンから耳を離し、ほっと小さく溜息をついた。その時……


「どうだった、凛」


不意に肩を叩かれ声を掛けられたから凛ははっとしながら後ろを振り向くとそこに立っていたのは透明で少し掴みどころの無い笑顔を湛えた佐藤傑さとうすぐるだった。


「あ……」


いきなり声を掛けられて驚いた凛は彼の顔を見詰めながら暫くの間絶句する。


「なんだ、まさか……落っこちたなんて言うなよ」

「え、いえ、も、勿論、ちゃんと合格です」


そう言いながら凛は掲示板の方に振り向くと自分の受験番号を指差して見せた。


「なんだそうか、それは良かった。これで晴れて同学年同士と言う事だな」

「先輩……」

「そうだ、その、先輩って言うのは今から禁止だ」

「え、でも」

「お前な、同学年同士なんだから先輩でも後輩でもないだろ。本日只今からタメ口な」


傑は『急性リンパ性白血病』を発症し一年受験が遅れた関係で当時は吹奏楽部の部長で一年先輩だった。そして、尊敬する人であると自分に同時にコクった人でもある。だから、急にタメ口で接しろと言われてもそんな事は出来る筈も無く、その辺は時の流れに身を任せたいところではあったが彼の俺様的な性格からそれも望めそうにない。凛は結局引き攣った笑顔で答えるしかなかった。そして、せめてクラスだけは別になって欲しいと祈るしかなかった。しかし、そんな微妙な空気などもろともしない奴がもう一人現れる。


「お~~~っ凛、どうだった」


現れたのは今野こんのきよし、幼馴染で凛が女の子になった後も男同士の友情を主張してくれるある意味頼りになる友人だった。少しふくよか目な体をわさわさと揺らしながら凛の背中を容赦なくバンバンと掌で叩く。彼の満面に湛えた容赦のない笑顔から察するに、同じく掲示板には自分の受験番号が有ったのだろう。


「ん、あ、あぁ、大丈夫、合格したよ」

「そうかそうか、俺も滑り込んだぞ。この勢いでクラスも一緒に慣れればいいな」

「あ、あぁ、そうだな」


少し迷惑そうなのと周りの目がちらちらとこちらに向けられる恥ずかしさが入り混じった複雑な表情を見せる凛だったが、嬉しさから来る激しい高揚感で今野は配慮などと言う言葉は脳裏の片隅にも残っていない、まずは目出度い、これ一色だった。


「それにしても凛……」


そんな今野が突然真顔に戻り、凛の顔をじっと見詰めながらしみじみと呟いた。


「女の子になったなぁ」


凛は一歩後ずさる……


「な、なんだよ今更」

「いやその、背中叩くたびに起こる胸のわさわさが激しくなったなって……」

「うるせぇな、てめぇ!!」

「あと、背中のブラジャーのホックの感触」

「ぶん殴るぞ!!」


今野と話していると思わず男の子の戻る凛の様子がおかしくて傑は口元に右手の拳を当てがいながらくすくすと笑い始める。その時点でやっと今野は傑が凛の横に居る事に気が付いて彼女からぱっと飛びのくと顔を赤らめバツの悪そうな表情を見せる。


「ホントに仲がいいんだな、お前ら」


そう言いながら笑う傑の表情には病気で入院していた時の陰は既に無く、これkらの人生に対する希望しか見て取れない。それでも若年層の場合、寛解が宣言されるまで早くても二~三年、年齢を重ねてしまうと完治まではそれ以上の時間が必要になるからまだまだ油断は出来ないのだが、重い症状からかの解放は心にも余裕を与えるのだろう。少し透明で青ざめている感じはまだ完全に払拭出来てはいないが、少なくとも笑うことが出来る様になったのは前進と言っても良いのだろう。


「さて、それじゃ、入学手続きに行こうか」


傑に促されて凛と今野は校舎に向かって歩き出した傑の後に続く。進学校だからおそらく勉強に忙殺されることになるのだろうが、三人は部活も大切にするつもりだった。そして、踏み出した一歩は明るい希望の線上に有る事を信じたい気持ちで溢れ日差しが眩しく感じられた。


本格的な春までにはまだ少し時間が有るが、柔らかさを帯びつつある空気は彼女達の行く先が未知への航海ではあるが、決して闇に浸された物ではないことを教えてくれている様に感じられた。

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