「あ、名前どうしよう」


 予約していた旅館に近づいたときに気が付いた。コヤスの名字の話だ。


「コヤス、名字は?」


 この子、名前しか言わなかったもんな。


「小松だよ?」


 この人、今更なにを言ってるの? みたいな顔でコヤスが答え、俺は藍太郎をじっと見た。


「なんだよぎーちゃん。あんまこっち見んなよ。照れるだろ」


 違う。俺が言いたいのはそれじゃない。


「藍太郎の、……隠し子?」

「コヤス、お前は俺の娘だったのか!?」

「ちゃうで」

「おふぅ」


 藍太郎、頑張って生きろよ。


「旅館では、コヤスは藍太郎の娘という設定でいかがでしょうか、二人とも」

「はーい」

「はーい」


 仲良く声を揃えて返事したし、君たちやっぱり親子なんじゃない?


 旅館にチェックインした後、あっという間に食事と入浴を済ませ、コヤスは全力で布団に潜り込み、俺は窓辺でほんの少しお酒を呑みながら藍太郎と大きな三日月を眺めている。


「関ヶ原かー。ロマンあるよねー。おいらが家康ならぎーちゃんは三成だよね」

「何を言ってるんだ。藍太郎は見学してる村人Aで、俺が家康に決まってるだろ?」

「そういうところ、昔から変わらないよねー」

「こっちのセリフだ」

「ところでさあ、家康は月を食べたと思う? おいらは今も浮いてるから食べてないと思うんだよね」

「天下を統一したくらいだから食べてるんじゃないか?」

「私も食べたと思うよ。月が欠けているのは、きっと家康が食べた跡なんだよ」

「わあ、コヤスちゃん起きてたのかい? 良い子は布団の中に潜り込んでいないとだめだよー」

「むー。アイタロウはそういうときだけ真面目だな」



 *―*―*



「うおっし、今からおいらがみんなをワンダーランドに連れてっちゃうよ! あ、ぎーちゃん、そこの信号、右ね」

「おー」


 今日も朝から藍太郎とコヤスは元気がいい。そして連れてっちゃうとか言いながら、運転は俺だ。


「藍太郎、次は?」

「そのまま真っ直ぐちゃん」


 しかも行き先は、関ヶ原古戦場ではなく陶芸工房である。なんか面白いとこなーい? といつもの調子で旅館の主に聞いたら勧められたのだが、主も主でどうして陶芸工房を薦めたのだろう。確かに関ヶ原町では珍しいのかも知れないけれど。

 目当ての工房は工場のような平屋で少し年季が入っていて、駐車場は建物の前ならどこでもどうぞといった風体だった。


「おはようございます。先ほど電話した美馬です」


 開け放しの入口から一歩入ると誰もいない。大きな声はあまり得意ではないが、こういう場合はやむを得ない。藍太郎だと何をするか分からないし。でも、会社に勤めてるんだよな。仕事中は案外にまともなのか?


「やあ、いらっしゃい。美馬さんね。んー……、んー?」


 向かって右の奥から出てきたヒゲもじゃで白髪のおじいさんは、何が気になるのか、舐めるように俺の顔をじっと見る。


「美馬さん。あんたあ、俳優の美波みなみ鉄山てつざんの息子だろ?」

「……ええ、まあ」


 こういう反応も久しぶりだ。地元の府中市では、普通に暮らしていたところで、誰かが声を掛けてくるわけでもない。


「どおりで。どこかで見た顔だと思ったよ。ま、ここ立ち話もなんだから中へ入って」

「お邪魔しまーす」


 入りながら、「ギイチの父は有名人だな」とコヤスに言われたが、それにもやっぱり「うん、まあ」と答えるしかなかった。


「えーと、工房とギャラリーの見学で良かったかな?」

「ええ、今日の今日ですから」

「前日までに予約してくれれば、轆轤ろくろと絵付けと焼きも教えられたんだけどね」


 そんなことを言いながら、機械から練った粘土をボトンと轆轤ろくろに乗せ、少し形を作るとペダルを踏んで回し始めた。

 老爺の手の中で滑らかになっていく様子を見て、藍太郎もコヤスも「おぉー」と感嘆の声をあげている。


「美波鉄山にはね、俺も随分と影響を受けたもんだよ」


 老いた陶芸家は、人生を語りたいようだ。それは俺にか、美波鉄山にか、自分に語りたいのか。


「男だったら月を喰ろうて逝ね。四十代であの座右の銘を聞いたときは、俺は痺れたよぉ。すぐにさ、勤めてた会社辞めて、陶芸の世界で天下取ってやる、って思ったもんさぁ」

「いやー、お爺ちゃん、随分と思い切りが良かったねー。後悔はしてないの?」

「んー、そりゃぁ後悔はしたさ。収入が安定するまでに随分と時間がかかっちまって、貯金もほとんどなくなっちまったし。でも、今は好きなことで生きられて良かったと思ってるよ。ただ、女房と子供には逃げられちまったけどな」


 老爺はそう言って、ヒゲを揺らして笑う。


「アイタロウ、この葉っぱのお皿を買ってくれ」

「そんなに気に入ったのか?  そういや髪留めも葉っぱだな。よしよし、お兄さんが買ってやろうじゃないか。一枚でいいか?」

「ううん。三枚買ってくれ」

「そっかあ。おじちゃん、奮発しちゃうぜ」

「お兄さんじゃなかったのか?」

「……ぎーちゃん、細かいことは言いっこなしだ」


 葉っぱの形をしているとは言え、普通のスーパーでも売っていそうなその小皿の、何がそんなに気に入ったのか分からないが、コヤスは車に乗った後もしばらく大事そうに眺めていた。



 *―*―*



 おんぼろ4ドアセダンは再び高速道路で西へと進む。

 途中で運転手を交代しながら、西宮を通り抜け、月見山料金所と月見山高架橋の案内板を横目に見ながら名谷ジャンクションを北に、お次は垂水ジャンクションをぐるっと回って三車線道路を南に下った。

 そうしてトンネルを抜けて少し走ると、青い空に映える真っ白い橋が見えてきた。


「でっか! 明石海峡大橋でっか! なにこれ、でっか!」

「うわあ! でっかい!」


 俺が運転しているお陰で、藍太郎もコヤスも好き勝手にあちこち眺めて、感嘆の声を漏らしていた。

 運転手じゃなければ俺もゆっくり見たいのに。ちくしょう。


「ぎーちゃん、ぎーちゃん、見て! 見て! 瀬戸内海だよ! 瀬戸内海!」


 だから余所見できないんだってば。それにうるさいってば。


「うーっずしお! うーっずしお! ぎーちゃん、渦潮見たい、渦潮見たい!」

「うーっずしお! うーっずしお! ギイチ、私も渦潮見たい見たい!」


 ぐぬぬ。好き勝手言いやがって。


「分かった分かった、渦潮見に行こう。あれだろ、観光遊覧船とかあるんだろ? 前にテレビで見たことあるよ。藍太郎、降りるインターと遊覧船調べといて」

「オッケー、了解だ! 愛してるぜ!」

「愛してるぜ!」


 藍太郎に言われるのはなんかムズムズするけど、コヤスに言われるのは悪くないな。飴ちゃんあげたくなる。

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