第6話 退屈だけど幸せな世界

意識が覚醒すると同時に目に入ってきたのは、見慣れた天井だった。

 ベッドから上半身を起こす。


「…生きてる?」


 俺は思わず呟いた。

 死んでしまったはずの自分が何故ここに?

 訳が分からなかった。

 部屋を見渡すと、馴染みの光景が広がる。

 机にはノートパソコンと携帯、本棚には漫画、何かの勢いで買ったけど使っていない懸垂器具。

 そして俺の横には、


「……んっ」


 すやすやと眠る、猫耳の女の子。

 俺が異世界で初めて出会い、救えなかったはずの半獣人の女の子だ。


「……アイリス……アイリス!」


 肩を揺らしながら呼びかける。

 アイリスは少し眉を寄せて、目を擦りながら体を起こす。


「……ハルト?…ここはどこ?」


「気がついて良かった。ここは俺の家だよ。俺が暮らしていた元の世界のね」


「ハルトの世界の家?……私、確かドラゴンと戦っていて、それから……?駄目、思い出せない」


 アイリスは混乱しているようだ。無理もない。

 俺だって状況がよく分からないんだ。


「アイリスはドラゴンとの戦いで、頭を打って気を失ったんだ。だから記憶がはっきりしていないんだと思う」


「そうだったんだね。私が気を失ってた後に、何があったの?」


「それは……」


 俺は、アイリスが気を失ってからの出来事を彼女に話した。

 村を襲っていたドラゴンを操る、自分と同じ世界から来た転移者の男がいたことを。

 ガウルに助けられ、その場からアイリスを連れて逃げ出せたことを。

 でも、自分達を追ってきたドラゴンに……。


「…うっ、ちょっと悪い」


 そこまで話をした俺は、最後の光景がフラッシュバックして気分が悪くなり、隣の脱衣場にある洗面所に駆け込んで、盛大に吐いた。


「……大丈夫?」


 心配で着いてきてくれたのか、アイリスは不安気な表情で俺のそばに立っている。


「大丈夫だから気にしないでくれ。あの後さ……」


 俺は気を取り直して話を続ける。


「俺たちは……たぶん、ドラゴンに喰われて死んだと思うんだ。」


「……うん…」


「そして、気がついた時にはこの場所に戻ってきていたんだ」


 分からないことだらけだ。

 異世界に転移したと思ったら、また元の世界に帰ってきた。

 それも、異世界にいる女の子を連れてだ。


「ここはハルトの言っていた“日本”なのね?」


「そうなんだ。…信じられないかもしれないけど」


 俺がそう言うと、アイリスは俯きながら小刻みに震えている。

 突然知らない世界に来たんだ。

 不安になる気持ちは、俺が一番よく分かっている。

 何とかアイリスに希望を持たせてあげたい。

 俺は彼女の肩に手を置き、


「アイリス。俺も一度は、この世界からエルデリアに転移してるんだ。だから、アイリスがエルデリアに戻る方法もきっと……」


「……フフッ」


 アイリスから笑みが溢れる。

 やばい。不安のあまり可笑しくなってしまったのだろうか。

 恐る恐る彼女の名前を呼ぶ。


「アイリス?」


「……凄い。ハルトの世界に来れたなんて…」


「え?」


 アイリスは両手をパンッと叩き合わせて喜んでいる。あまりに予想外の反応に面食らっていると、


「ハルト、初めて会った日に話をしてくれたじゃない?日本では猫耳の子は人気者なんでしょ?」


「あぁ、そうだな…うん」


「あと、食べ物。鳥の卵を使った甘い食べ物があるって教えてくれたよね。あの日の夜は、どんな味か気になって眠れなかったんだから」


 いつになくアイリスのテンションが高い、こんな彼女の姿を見るのは初めてだった。

 楽しそうな彼女の姿を見ていると、真面目に考えて悩むのが馬鹿らしく思えてきた。

 深く溜息を一つ吐き、


「…まあいいか。アイリスが言ってるのはプリンのことだな?」


「そうそれ。ぷりんって食べ物」


「多分、冷蔵庫に入ってるから一緒に食べようか」


「ほんと?」


 俺はキッチンに向かい、冷蔵庫を開ける。

 ちょうど、三個入りのプッチンするタイプのプリンがニ個だけ余っていた。

 俺はプリンを二個取り出して、戸棚から小皿を二枚用意する。

 プリンの蓋を開けて裏返し、容器の裏にある突起を指先でプッチンした。


 プルルン、プルプルプルプル…。


 皿の上で震えるプリンを、アイリスが食い入るように見ている。

 猫耳がプリンの揺れに反応するかのように、高速で動いているのを見て、思わず吹き出してしまう。


「…フフッ。アイリス、見てるだけじゃなくて食べてみなよ」


「う、うん…」


 アイリスにスプーンを渡す。

 彼女は、受け取ったスプーンをゆっくりとプリンに近づけて人掬いし、口元へと運ぶ。


「……美味しい!こんなに美味しい食べ物、初めて食べた」


「喜んでもらえて良かったよ」


 アイリスは無我夢中でプリンを食べている。その様子がなんとも微笑ましくて、俺は自分の分のプリンも彼女にあげることにした。

 あれだけ喜んでくれるなら、俺より彼女に食べられる方がプリンも本望だろう。

 エルデリアではアイリスに食べ物を恵んでもらっていたから、このくらいはしないと罰が当たる。

 プリンを食べるアイリスをにやにやしながら眺めていて、ふと大事な事を思い出した。


「やっば!仕事……あれ?今日は土曜日か」


 携帯を見て、曜日を確認する。

 俺が日本で命を落としたのは、金曜日の夜だった。会社帰りにコンビニで酒とつまみを買って、家に帰る途中でナイフで刺されて死んだんだ。それから女神ロキにエルデリアに転移させられてから三日目で死んで、日本に戻ってきた。


「…こっちと向こうで、時間の流れが違うんだな」


 今の時刻は午前8時を少し過ぎたぐらいだった。向こうでの三日間はこっちでの半日程度ってことか…。

 てことは、今日と明日は自由にできるわけだ。


「なあ、アイリス」


「ん?どうしたのハルト?」


 アイリスはちょうどプリンを食べ終えたのか。名残惜しそうに空になったプリンの容器を眺めている。


「これから少し出掛けてみないか?」


 アイリスは机に突っ伏した状態から、勢い良く体を起こした。


「行きたい!ハルトの世界、日本のことをもっと知りたい」


「分かった、分かった。じゃあ色々と準備するか…」


 とりあえずシャワーを浴びて着替えたいな。

 向こうでの三日間は水浴びしかしてなかったから、熱いシャワーが浴びたい。

 だが、ここはレディーファーストだろう。


「アイリス。先にシャワー浴びてこいよ」


「…ハルト。シャワーって何?」


 まあ、そりゃそうだな。

 俺はアイリスにシャワーの使い方を教えてあげる。

 彼女になぜ金具を捻っただけで、水やお湯が出てくるのか尋ねられたが、魔法みたいな物だということにしておいた。

 俺はバスタオルと、買うだけ買ってほとんど使っていない運動用のジャージを脱衣場のカゴの中に入れた。


「アイリスー!タオルと着替えはカゴの中に入れておくから、使ってくれー」


「分かったー。ありがとうハルトー」


 俺はシャワーを浴びているアイリスに声を掛けた。

 この扉一枚隔てた先で、女の子がシャワーを浴びているんだ。


「…………」


「…ハルトー。いつまでそこにいるつもりー?」


「はい、すいません」


 ……

 …


 俺はアイリスがシャワーを終えるまでの間、コーヒーを淹れて寛いでいた。

 あぁ、なんて落ち着くんだ。

 平和な世界とはこんなにも素晴らしい物だったのか。

 今まで何とも思っていなかった出来事が奇跡のように感じられる。

 幸せを噛み締めていると、リビングの扉が開いた。


「あー、気持ちよかった〜」


 アイリスがサイズの合っていないブカブカのジャージを着て、濡れた髪で扉の前に立っていた。

 ちなみに女物の下着など俺の家にあるはずもないので、彼女は現在下着を履いていない。


「……えっちいっすね」


「えっちい?どういう意味?」


「いや、何でもないです。シャワー浴びてきます」


 そそくさと退散して脱衣場まで移動する。

 シャンプーの匂いと、それとは違う甘い匂いのようなものがしてクラクラする。

 一回り程も年下の女の子に欲情するとは、バカ息子めが。

 俺はシャワーを思い切り熱く設定して、雑念を振り払った。


 ……

 …


「…まずは、アイリスの服が欲しいな」


 俺は風呂から上がると開口一番にそう言った。

 アイリスはきょとんとした顔で、


「この服、肌触りも良いし、動き易いし、結構気に入ってるんだけど…駄目なの?」


 アイリスが長い袖を手に握って、首を傾げる。

 いや、そういうあざといポーズが自然と出来上がるから駄目なんだよ。


「駄目です。ちゃんと女の子らしい服をこれから買いに行きます」


「服を買うの?…ハルト、私はこの世界のお金を持ってないから買えないよ?」


「いや、お金はもちろん俺が出すよ」


 社会人を舐めるなよ。

 酒、タバコ、ギャンブルとは無縁だった為、普通に生活をしているだけでそれなりに貯金は出来ていた。

 アイリスは目を丸くして、驚愕した表情でこちらを見る。


「ハルトってこの世界では貴族か何かなの?お家にシャワーもあるし、プリンも食べられるし、簡単に服を買おうなんて言えるなんて…」


「いや、普通に平民だよ。日本が恵まれた国なのは間違いないけど」


「これが日本の平民の暮らし……日本凄い…」


 アイリスは紅茶の入ったカップを持ちながら、感嘆の声をあげる。

 彼女の反応を見ていると、なんだかこっちまで楽しい気分になってくる。


「それじゃあ、アイリス。そろそろ出掛けようか」


「うん。よろしくね、ハルト」


 俺はアイリスを連れて家を後にした。


 ………

 …


「いらっしゃいませ〜!」


 駅前のショッピングモールに入ると店員さんの元気な挨拶が聞こえた。


「うわぁ…人がいっぱいいる…」


 アイリスは人の多さに怯るんでいる。

 向こうでは森の中で暮らしてきたんだ。人ごみは苦手なのかもしれない。

 あまり変な騒ぎにはしたくないので、アイリスにはジャージに付いているフードを被ってもらい、猫耳は隠している。

 この世界でも猫耳はやっぱり気持ち悪いの?と悲しそうにしていたが、猫耳が人気過ぎてたくさん人が押しかけてくるから人目に晒すのは良くない、ということで納得してもらった。

 ショッピングモールの店内には多くの服が並んでおり、アイリスはキョロキョロと周囲を見渡す。


「アイリス、何か気になるのはあるか?」


「…うぅん…私にはよく分かんない…」


 と言われても俺も女の子の服装に詳しくないからな…。

 とりあえず近くの服屋に入ってみるが、どれがいいのやらさっぱりだ。

 俺達が悩んでいると、女性の店員さんが声を掛けてきた。


「こんにちは。何かお探しですか?」


「この子の服を探してるんですけど、できれば動きやすい服が良いみたいで…」


 条件を伝えると店員さんは、私の好みで良ければ…と服の組み合わせを選んでくれて、そのまま試着室まで案内される。

 アイリスが試着室で試着をする間に、俺は近くの椅子に腰を降ろす。

 少し待っていると、


「…どうかなハルト?変じゃない?」


 試着室のカーテンが開いて、アイリスが顔を出した。

 試着した服はデニムのホットパンツに、薄い生地のスポーティな黒のフード付きのパーカー。

 アイリスは照れ臭そうにしているが、その服装はとても可愛い。


「いいんじゃないか?似合ってると思うけど」


「…ならこれにする。これがいい」


 アイリスは嬉しそうに頷いた。

 店員さんに試着した服が気に入ったので、そのまま着てくいくことを伝えて会計をしてもらった。

 値段は結構リーズナブルだった。いいお店だ。今度とも利用させてもらおう。

 他にもアイリスと色々なお店を周り、生活に必要な物を揃えた。

 アイリスは日本の生活に馴染みがないので、色々な物を珍しそうに眺めていた。

 俺はそんなアイリスの反応を楽しみにしながら、色々と買い込んだのだった。


 ……

 …


 帰り道、俺達は電車に乗って自宅のマンションの前まで帰ってきた。

 今日はアイリスが生まれて初めて電車に乗った。

 最初は不安な様子だったが、帰りは窓からの景色を楽しむ余裕も生まれていた。

 どうやら彼女は生活に適応する能力が高いらしい。


「ハルト、今日は本当にありがとうね。こんなに楽しかったのは人生で初めてだよ」


「そうかそうか、俺も楽しかったよ。家に着いたら買ったケーキを食べよう。美味すぎて腰抜かすぞ」


「ふふふっ。楽しみにしてるよ」


 マンションに着く頃にはすっかり暗くなっていた。

 エレベーターに乗って自宅の5階まで昇る。

 部屋まであと少し。

 目的の階でエレベーターが止まり、ゆっくりとドアが開く。


「お帰りなさいませ、神崎様」


 ドアの向こうには、二度と会いたくないと思っていた女神が立っていた。

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