愛と恋と偶像

桐原まどか

愛と恋と偶像



ここに、とあるドルオタがいる。彼は実家暮らしなのをいい事に、自分の稼ぎ(SEである)をすべて、アイドルに注いでいた。その名も<Love☆キュン注入>の『広瀬桃香』である。

彼女たちは、いわゆる地下アイドルである。が根強いファンたちの応援により、最近は地上波のテレビ出演も増えてきている。

放映後、Twitterなどで「可愛かった!」などの呟きを見ると、自分の手柄のように、ムフフ、と笑ってしまう彼であった。


今日は握手会だ。

桃香ちゃんはにこにこしていて「あー、○○さん!今日も来てくれたんだ?うれしー」と彼の名前を呼んでくれた。僅かな瞬間が永遠に感じられる。

―桃香ちゃんは永遠に俺のアイドルさ。

そんな彼に衝撃が走る。

『地下アイドル<Love☆キュン注入> 広瀬桃香 熱愛発覚!俳優・Dとラブラブ手繋ぎお泊まりデート!』

扇情的な見出しに、隠し撮りであろう写真。相手の俳優には目元に線が入れられているが、桃香はばっちり写っている。

彼は激怒…しなかった。

むしろ、心配した。

―桃香ちゃん、大丈夫だろうか…? 今度の握手会は出れるだろうか…?


数日後。握手会会場。

桃香の列は極端に短かった。やはり例の記事の影響だろう。それでも桃香は健気に「また来てくれてありがとー」など、ファンサービスをしている。その姿に彼は落涙しかけた。

彼の番が来た。

「○○さん!来てくれて、ありがとう」ニコッと笑う。「桃香、ハッピーだよ」

彼は思わず握手している手にギュッと力を込めた。

「桃香ちゃん…忘れないでくれ…。キミから見たボクは<キモイ>ドルオタかもしれないけど、ボクから見たキミは<永遠>に女神だよ」時間終了になってしまった。

バイバイしながら、彼は再び彼女に逢える日を願った。


広瀬桃香は溜め息をついた。

―今日び、情報の拡散が早い。Twitterを開けば、悪口。DMには罵詈雑言。

Instagramも同様だ。

YouTubeチャンネル

も登録者数が減ってしまった。原因はわかっている。

あの忌々しい週刊誌と止められなかった弱小プロダクション…何より、一番狙われやすい時期に<尾行>の警戒を怠った自分…。メンバーからも冷ややかな視線で見られている。この業界、たった一度が、致命的なダメージになるからだ。Dとは、週刊誌や世間の思う、ふしだらな関係ではない。Dは高校の先輩で、たまたま食事に行った帰りだったのだ。飲みなおそうぜ、と言われ、着いて行った、自分の浅はかさが憎い。ちなみに手を繋いでいたのは、桃香がよろけた為で、すぐに離してくれたのだが…。一瞬をまるで、ずっとそうしていたように書かれた。

再び溜め息。でも。応援してくれるファンはまだ、いる。嵐が過ぎ去るのを待とう。桃香は決意し、レッスンへ向かうのだった。


真っ暗な部屋。遮光カーテンが引かれているのだ。日中なのに、光がない。パソコンの前で男がひとり、ぶつぶつ言っている。

「一生懸命応援してやったのに…男なんてこさえやがって…」呪詛のような呟きが部屋に満ちている…。


某日。<Love☆キュン注入>握手会、会場。

彼は今日も桃香に会うべく、やって来ていた。

彼の前に見慣れない男がいた。―新規ファンかな?

桃香のファンが増えるのは喜ばしい事だ。

列は順調に進んで行く。

いつもの光景だった。

彼のひとつ前の男の番だ。桃香は明るく、「はじめまして、かな?来てくれてありがとう!」と右手を差し出す。が男は握手しない。代わりに…。

悲鳴があがった。

取り出した小型のナイフで桃香を切りつけたのだ…。桃香の服の中央部分が斜めに切り裂かれた。男は更に台をよじ登り、桃香に攻撃を加えようとした。スタッフが飛び出してきて、加害を止めようとし、切りつけられた。

彼は男の後ろ襟首をぐいっと掴んだ。背後ががら空きだったのだ。「お?」という声。ナイフを握っている右手首にチョップを入れる。カラン、と音を立て、ナイフが床に落下した。

「このやろう!」攻撃対象が桃香から彼に変わった。彼は叫んだ「スタッフさん!桃香ちゃんを!」と。

何やら冷たいものが走ったような感触。痛み。

男は二本目のナイフを持っていたのだ。

切りつけられた右腕からポタポタと血が滴る。

―時間を稼がねば…!

桃香は腰が抜けてしまったようで、スタッフが苦労している。

―華奢な女の子、ひとり、守れないのか!

彼は咆哮し、男へ向かっていった。武道の心得などない。無我夢中で相手に飛びついた。

―悲鳴。

彼は左胸を刺されたのだ。

意識が遠のく…。


目覚めたのは病院だった。小型のナイフだったのが幸いし、軽傷で済んだ。念の為、入院する事にはなったが。

警察の事情聴取をベッド上で受け、やれやれ、と思った。桃香は無事だが、かなりのショックを受けているらしい。

無理もない…可哀想に…。

彼は心底から桃香の、早い復活を願った。


退院の日。母親が戸惑い気味の表情で現れた。その後ろにサングラスをかけた、ほっそりとした女の子と、何やら紙袋をさげたスーツ姿の男がいる。

男の胸がドキンとひとつ、跳ねた。

「あんた…じゃなかった、しゅん、お客様だよ」母親に名前を呼ばれ、現実に引き戻された。

「はじめまして。この度はお礼に伺うのが遅くなり、また、弊社所属の広瀬桃香を助けて頂いた事、篤く御礼申し上げます」スーツ姿の男がペコリと頭をさげる。「わたくし<Love☆キュン注入>総括マネージャーの秦野と申します」名刺を渡される。

はぁ、などと間の抜けた返しをしてしまう。

「桃香、おいで」男が女の子を呼んだ。

彼女はサングラスを外し、どこか泣き出しそうな、はにかんだ笑顔を見せた。

「瞬、さんっていうんですね、広瀬桃香です。いつも応援ありがとうございます」ペコリと頭をさげる。「今回はありがとうございました。なんとお礼を言ったらいいのか、わかりません」彼女は顔をあげない。彼―瞬は言った「桃香ちゃん…いや、桃香さん、顔をあげてください」桃香が顔をあげた。瞳が潤んでいる。「ボクは自分がしたくて、勝手にやったんだ。桃香さんが気に病む必要はこれっぽっちもないよ」瞬は続けた。「キミは<アイドル>だ。そうして、ボクはファンだ。これからも応援してるよ」

ついに桃香の瞳から涙が零れた。「ありがとう、ありがとう、瞬さん」

桃香が泣き止むまで、彼らは見守っていた。


数ヶ月後。

仕事の締切に間に合わせるべく、二日間の徹夜を乗り切った彼は…しかし、寝る事なく、自室のテレビをつけた。もちろん録画予約済みだ。

<Love☆キュン注入>が地上波の朝のテレビに出るのだ…。

「今日も桃香ちゃんは、可愛いなぁ…」

仕事明けの髭ののびきっただらしない格好で液晶を見守る。

彼の<女神>は今日も元気いっぱい、微笑んでいる…。

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愛と恋と偶像 桐原まどか @madoka-k10

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