<32> 抹茶タンカー
「うーん」
「どしたのヒミカさん」
ヒミカは読みかけのダンスステップ指南本を脇に置いて、伸びを一つ。
懸案事項が頭の中でスペースを取っていて、本の内容が入っていかない。
「何か上手くいかないの?」
「や、むしろ上手くいきすぎてるんだけど……決め手が無いのよ」
急ごしらえで準備した借家は、建物こそ立派だが、整えてあるのはパーティーに使う部分と応接間、そしてそこに繋がる廊下だけ。
裏の方は適当だ。身一つで公王国に辿り着いたのだから荷物すら無い。
もともと、社交シーズンの仮住まいを想定している貸家なので、上等な家具類がたんと備え付けてあるが、庶民マインドのヒミカは適当な椅子に座り、パーティー用食品搬入に使われた『スキエルいも』の空きコンテナをフットレストとして読書していた。
スケジュールの隙間のけだるい時間だった。
フワレとセラはチェスに似たゲームで、タイトル戦レベル(メルティア・談)の対局をしていて、メルティアはヒミカに割り当てられた天蓋付きベッドで我が物顔でゴロゴロしていた。
「要するに勇者選定の儀を前に、セラニア王国にどういう形で凱旋するかってこと」
「いっそ公王国に住んじゃえば?」
「亡命するってなると、また話が変わってくるわよ。
セラニアには、フワレちゃんの問題もあるし……」
公王国での人脈作りは上手くいっている。
だがこれが何のためかと考えるなら、セラニア王の陰謀を打ち砕くためだ。
現状でも後ろ盾としては実に心強いのだが、この勢いをどうやってセラニアへ持って帰りぶつけるか、と考えると、妙案が無い。
「セラニア王国内には、私に対する『盛り上がり』が、まだ一切無いわけでしょ。
公王国での評判が伝わらないかな……」
「微妙ですね。国境を越えて話題が伝わるには、それだけの何かが起こらないと」
「巡礼中も、あれだけ悪者をやっつけたのに」
「人々を困らせている悪者をやっつけたのではなく、降りかかる火の粉を払っただけですからね。
そもそもアンジェリカ殿下は、以前から犯罪組織としょっちゅう戦ってはいましたから、いつものことではあるんです」
「最初の農村での戦い……
ダメだな、国中に宣伝するには話題が小さすぎる」
セラは盤上から『君主』の駒を取り上げ、その王冠をトントンと突いていた。
あのロクデナシ王は、貴族たちの面前だけでなく、お祭りの闘技大会まで使って国民の前でヒミカを貶める計略を実行した。
逆に言えばそれだけ、民の力を恐れているのだ。民がアンジェリカを認め、自分に敵対することを恐れている。
「……いくら考えても前提知識が無いんだから、アイデアなんて出ないわよね。
計略とか陰謀とか、得意そうな人を公王国で探して相談してみようかな」
ヒミカはベッドにだらしなく身を投げ出す。
ごろごろしていたメルティアが、すぐにヒミカによじ登ってのしかかってきた。
丁度その時、ベルが鳴った。
「わっ」
ヒミカは飛び起き、転げ落ちたメルティアはそのまま玄関にかけていく。
来客の予定は無いし、訪問カードでもこの時間はOKとしていない。メッセージか手紙だろうとヒミカは目星を付けた。
すぐにメルティアが、銀盆に載せた二つ折りのメッセージを持って戻ってきた。
「侯爵様のお使いからだよ!」
そして本来は主人(この場合はヒミカ)に直接渡すべきメッセージを、諸々省略してまず自分が開く。
「えーとね、セラニア王国への緊急輸送抹茶タンカーが昨日また沈められたんだって。
で、その対応で大変だから、アポしてたのに申しわけないけど今日は会えませんって」
「抹茶タンカー……実在したのか……」
この世界の抹茶というものが一体何なのか、ヒミカは恐ろしくて余り突っ込んで調べられずにいるのだが、とにかくそれは、東国にて産出される。
そして、このヴェルダンテ公王国の運河を東西に横断し、内海を通るタンカーによってセラニア王国へ運ばれるそうだ。
ヒミカがこの世界へ来るより少し前、そのタンカーが沈められ、内海には茶漬け汚染が広がった。そして昨日、二隻目がやられたわけだ。
「こちらの新聞では断片的な情報しか得られませんが、セラニア王国内ではいよいよ抹茶不足による問題が深刻化しているようです。
魔力単価の高騰や、中毒者の変異、反発する市民による問屋への打ち壊しが発生しております」
「私の知ってる抹茶じゃないわね」
長考中の名人フワレは、盤面以上に難しい顔だ。
ヒミカにはよく分からないが、おそらく彼は、抹茶不足が引き起こす社会問題を度々経験しており、それを憂いているのだろう。
再びベッドに寝っ転がろうとして……
「待って! それだわ! 抹茶タンカー!!
すぐに侯爵様に連絡取って!」
ヒミカの頭に星が瞬いた。
* * *
江戸時代のとある年、太平洋が大いに荒れた。
紀州有田では蜜柑が豊作だったが、これを江戸に運ぶことはかなわず、蜜柑は上方商人に安値で買いたたかれ、一方で江戸では高騰した。
その時、紀伊国屋文左衛門は、江戸の人々のために大冒険をして嵐の海を越え、故郷の蜜柑を江戸に運び、巨万の富を得て大商人になったという。
これが有名な蜜柑船伝説である。
史実では、確かに紀伊國屋文左衛門は故郷の蜜柑を江戸に売る商売をしていたが、上方商人の暗躍や都合の良い大嵐、それを乗り越える伝説的な大冒険は後世の脚色だと言われている。
「……もしかして私が歴史に残るとしたら『抹茶のアンジェリカ』って言われるのかしら。頭の頭痛が痛い……」
気のせいだろうか。
埠頭に吹き付ける潮風は、どこか、茶の香りをはらんでいる。
ヒミカの前には巨大な壁がそびえていた。
停泊中の抹茶タンカーだ。
周囲には木造船が多い中、輝かしいばかりの金属製船舶で、モス型液化天然ガス輸送船のように巨大なタンクを抱え込む構造だった。ただしタンクは球形ではなく、茶筒の如き円筒形だ。
「名高き勇者候補様に、ご同行頂けるのであれば実に心強い!
船員がどいつもこいつも、『俺は抹茶ゾンビになりたくないぃ~』って震え上がっちまって、仕事にならねえところだったんでさ。
まったく、海の漢の名が廃るぜ」
「私の知ってる抹茶じゃないわね」
どっちかと言うと略奪する側に見える、ワイルドな外見のタンカー船長が、髭面を歪めて笑った。
抹茶不足のセラニア王国を救う緊急輸送は失敗し、抹茶タンカーは海の藻屑となった。
これから行われるのは、緊急輸送のバックアップとなる超緊急輸送だ。
ヒミカはそれに同行し、七王国の抹茶市場支配を狙う犯罪組織『抹茶シンジケート』からタンカーを守る。
自ら志願し、これに同行したのだ。
「フワレちゃん。
一応聞いておくけど、アンジェリカ姫は抹茶シンジケートに」
「恨まれてます」
「……そんな愉快な連中とは無関係でいたかった……」
「ま、まあ、この輸送を成功させたらどのみち恨みを買うと思いますし……」
フワレが慰めになっているのかいないのか分からないことを言った。
「本当であれば、このような危険な役割を殿下に押しつけるなど、論外なのですがね」
やりきれない表情で船を見上げる紳士の姿がある。
柔和な雰囲気だが、どこか油断ならぬ曲者感のある、細身のナイスミドルだ。
スキエル侯爵バートラム。公王国を治める諸侯の一人で、此度は彼が抹茶緊急輸送の手配を担当した。
「どうかお気になさらず。私にも狙いがあって協力しているのですから」
「かたじけない。
……先日のタンカー轟沈によって、もはや茶漬け汚染は内海を塞いでおります。
汚染海域で通常の軍船は役に立たず、護衛は不可能。乗り込む者個人の力に頼るしかありません。もっともそれは、襲う側も同じですが……」
戦略レベルの兵器が持ち込めない戦場なら、それは個人で戦略級の力を持つヒミカの独壇場だ。
もちろん、状況を甘くは見られない。
海上戦闘では敵に一日の長がある。そして、もし戦ってヒミカが生き残ったとしても、タンカーを沈められてしまえばおしまいだ。
「この言葉が適切かは分かりませんが……どうか、ご武運を」
「はい!」
勝利を祈る握手を受け取り、ヒミカはタンカーに乗り込んだ。
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