孫恩2  決起

司馬元顯しばげんけんの乱脈が会稽かいけいを締め上げると、人々はみな不安不満を抱くようになった。孫恩はこうした騒動に乗じ、海より上虞じょうぐを攻め、縣令けんれいを殺し、さらに會稽を襲撃。內史ないし王凝之おうぎょうしを殺し、その勢力は数万を数えるようになりました。ここに応じたものが會稽の謝鍼しゃかん、吳の陸瑰りくかい吳興ごこう丘尪きゅうおう義興ぎこう許允之きょいんし臨海りんかい周胄しゅうちゅう永嘉えいかの張永ちょうえいなどのほか、東陽とうよう新安しんあんなど八つの郡にて一斉に決起があり、当地づとめの長史ちょうしを殺害の上、呼応。10日もしないうちにその兵力は数十万にも及んだ。


これらの動きで吳興太守ごこうたいしゅ謝邈しゃばく永嘉太守えいかたいしゅ謝逸しゃいつ嘉興公かこうこう顧胤こいん南康公なんこうこう謝明慧しゃめいけい黃門郎こうもんろう謝沖しゃちゅう張琨ちょうこん中書郎ちゅうしょろうの孔道、太子洗馬たいしせんば孔福こうふく烏程令うていれい夏侯愔かこういんらはみな殺された。


吳國內史ごこくないし桓謙かんけん義興太守ぎこうたいしゅ魏傿ぎえん臨海太守りんかいたいしゅ新蔡王しんさいおう司馬崇しばすうらはみな逃げ出した。


こうして孫恩は會稽に拠点を置き、征東將軍せいとうしょうぐんを自称、郎党を「長生人ちょうせいじん」と呼んだ。逆らうもの、同調しないものは嬰児に至るまで皆殺しにせよと宣言、実行させ、地域の民の八、九割が殺された。建康けんこう近郊の諸縣でも蜂起するものが現れ、朝廷は震え上がり、內外に戒厳体制が敷かれた。


衛將軍えいしょうぐん謝琰しゃえん鎮北將軍ちんほくしょうぐん劉牢之りゅうろうしが討伐に駆り出され、両軍は各地で五斗米道軍を撃破しつつ進んだ。吳や会稽は久しく戦乱より遠ざかっており、人々は戦慣れもしておらず、またまともに戦のための武器なども揃えていなかった。このためまたたく間に各地で打ち破られたのである。このため五斗米道軍は各地で逃亡、その際には倉庫や家、畑を焼き払い、木をなぎ倒し、井戸を埋めた。財産という財産をかき集め、會稽に向かった。


女性たちのうち、小さい子供がいて逃げ延びられないものがあったら、かごやずだ袋に嬰児を押し込め、川や湖に投げ込み、こう告げたという。

「おめでとう、お前は先に仙堂に登れたのだ。私もすぐお前の後を追うからね」




及元顯縱暴吳會,百姓不安,恩因其騷動,自海攻上虞,殺縣令,因襲會稽,害內史王凝之,有眾數萬。於是會稽謝鍼、吳郡陸瑰、吳興丘尪、義興許允之、臨海周胄、永嘉張永及東陽、新安等凡八郡,一時俱起,殺長史以應之,旬日之中,眾數十萬。於是吳興太守謝邈,永嘉太守謝逸,嘉興公顧胤,南康公謝明慧,黃門郎謝沖、張琨,中書郎孔道,太子洗馬孔福,烏程令夏侯愔等皆遇害。吳國內史桓謙,義興太守魏傿,臨海太守、新蔡王崇等並出奔。於是恩據會稽,自號征東將軍,號其党曰「長生人」,宣語令誅殺異己,有不同者戮及嬰孩,由是死者十七八。畿內諸縣處處蜂起,朝廷震懼,內外戒嚴。遣衛將軍謝琰、鎮北將軍劉牢之討之,並轉鬥而前。吳會承平日久,人不習戰,又無器械,故所在多被破亡。諸賊皆燒倉廩,焚邑屋,刊木堙井,虜掠財貨,相率聚於會稽。其婦女有嬰累不能去者,囊簏盛嬰兒投于水,而告之曰:「賀汝先登仙堂,我尋後就汝。」


(晋書100-2)




うーん面白い、ほんと面白い。宋書はとにかく地方の動きがなにも見えなかった、と言うか晋書もここまで見た感じだと全然だったので、ようやくこの段になって会稽まわりを見せてもらえた印象です。ここで謝氏が謝氏を殺すみたいなわけわかんないことになってますが、たぶん大体の傾向として殺してくる謝氏は会稽謝氏で、殺される謝氏は陳郡謝氏です。とはいえ前話にいた謝輶は会稽謝氏。このへん、会稽謝氏内でも格差がすごかったんだろうな、と。陳郡謝氏も史書に名前が載ってないところでどうなってるかわかりませんしね。


そして孫泰のときに合流してた孔道がこちらではさっくり殺されてて草。

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