殷仲文2 自解の表

安帝あんてい建康けんこうに復帰すると、殷仲文いんちゅうぶんは上表し、自らの解任を願い出た。


「臣は聞いております、洪水が谷間を震わせるとき、その川に安穏としておれる魚はおらぬものである、と。暴風が野を打つとき、静まったままでおれる樹木なぞありえぬ、と。何故でありましょうか。弱き者は強き者の制御より逃れきれぬからであります。軽きものは、おのれ一つをこの地に置くことすら難しいのでございます。こうした理屈は口にすることこそ簡単にございますが、それを臣の身に当てはめねばならぬとは、どうにも胸に迫るものがございます。

 昔、桓玄かんげんが簒奪をなしたる折、かの者は多くの者に服従するよう迫って参りました。微臣なぞに至りても、またその罪は実に深い、と申し上げるべきにございましょう。進まばこの国難のために身を捧げることが叶わなくなり、退こうとて伯夷はくい叔斉しゅくせいのごとく首陽山しゅようざんで粟を食まんと願い出るとて叶いませんでしたでしょう。かくて流されるようにかの者の宴会に加わり、偽りの俸禄にて腹を満たしました。更には簒奪のための文章までものしている。自分ひとりで節を貫くこともできずにございました。我が名、我が道義はともに淪没し、我が情、我が節度はともにたわみ、ただ厳しき法に裁かれることにて、我が忠義のほどを占ってくだされば、と願ってやみませぬ。

 鎮軍將軍ちんぐんしょうぐん劉裕りゅうゆうの尽力によって社稷が取り戻され、大いなる善が再び世にめぐらされつつございます。このわずかなる命はただ処刑を待つ身にございましたが、鎮軍の三度もの申し入れにより、我が身我が官位をつなぎ止めること叶いましてございます。当時は陛下の存亡とて未だ明らかにはなっておられませんでした。ゆえにこそ自らの進退なぞいちど無視し、鎮軍どののご意向を叶えられるべく、顔を伏せつつも諸務に精励して参りました。

 いま、陛下が建康けんこう城に無事お戻りとなり、新たなる御代がはじまったことを述べられ、法規を新たにお示しとなられました。ならば世は臣の旧悪を思い起こすこととなりましょう。その臣がどのような厚かましい顔で栄えあるお役目に居座っておれましょう! どうか我が職をお解きになり、自宅にてお裁きを待たせていただければ、と思います。この身宮廷より離れたとて、お国を、陛下を慕う心は変わりませぬゆえ」


この上奏は却下された。




帝初反正,抗表自解曰:「臣聞洪波振壑,川無恬鱗;驚飆拂野,林無靜柯。何者?勢弱則受制於巨力,質微則無以自保。於理雖可得而言,於臣實非所敢譬。昔桓玄之代,誠復驅逼者眾。至如微臣,罪實深矣,進不能見危授命,亡身殉國;退不能辭粟首陽,拂衣高謝。遂乃宴安昏寵,叨昧偽封,錫文篡事,曾無獨固。名義以之俱淪,情節自茲兼撓,宜其極法,以判忠邪。會鎮軍將軍劉裕匡復社稷,大弘善貸,佇一戮於微命,申三驅於大信,既惠之以首領,又申之以縶維。于時皇輿否隔,天人未泰,用忘進退,是以僶俯從事,自同令人。今宸極反正,唯新告始,憲章既明,品物思舊,臣亦胡顏之厚,可以顯居榮次!乞解所職,待罪私門。違離闕庭,乃心慕戀。」詔不許。


(晋書99-34)




殷仲文としても、気が気ではなかったのは確かなんでしょうね。自分の値段をどう見繕ったのか。劉裕のその後の人事を見ていても、殷仲文のことを「桓玄の残党をあぶり出すための餌」と認識していたのは間違いのないことだったんでしょう。なのでここで変に求心力のある人物を処断してしまって残党が分散することを避けようとした。そんな意図がちらほら見えます。それを殷仲文自身がどこまで理解していたのか、どうか。単に徳ある行動だった、と楽観してた、とするのは少々厳しい気もします。この段階で既に太原王氏たいげんおうし王愉おうゆ王綏おうすい親子が処断されて、王承おうしょう以下の房についてはほぼ断絶状態にもなっているっぽいですしね。劉裕が甘い相手じゃないことは殷仲文自身、いやと言うほど理解していたはず。


このあたりの心理が次話で垣間見られることになるんでしょう。さて、どう描かれるのか。ちらりと見てみたら世説新語の再録があるみたい。さすがにこの上奏文見た後に殷仲文の世説新語における諸発言を見ると、ちょっとオモシロ発言と簡単に断じるわけにもいかなさそうです。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る