桓玄15 庾仄決起

○晋書


新野しんや人の庾仄ゆそく桓玄かんげん九錫きゅうしゃくを受けたと聞くと決起し、馮該ふうがいの守っていた襄陽じょうようを襲撃、敗走させた。庾仄のもとには七千もの兵が集まり、城の南に祭壇を設け、自身の祖宗の七廟を祀った。


まって?

このひと自身が皇帝になろうとしてるんですけど?


ともあれ、南蠻參軍なんばんさんぐん庾彬ゆひん安西參軍あんざいさんぐん楊道護ようどうご江安令こうあんれい鄧襄子とうじょうしはこの動きに内応せんと企んだ。


庾仄はもともと殷仲堪いんちゅうかんの配下であった。桓偉かんいが死に、後釜とされた桓石康かんせきこうがいまだ荊州けいしゅうに到着していない、そのすきに乗じての決起であった。江陵こうりょうに激震が走る。しかもこのとき桓濟かんさい(桓玄の兄のうち叔父の桓沖かんちゅうを殺害せんと企んだ末露見し広州に流された残念な人物)の子である桓亮かんりょう羅縣らけんにて決起、平南將軍へいなんしょうぐん湘州刺史しょうしゅうししを自称し、庾仄を討伐する、という名目で攻め上がろうとした。


このとき江陵で南蠻校尉なんばんこうい、つまり桓石康到着までの間の西府をあずかっていた羊僧壽ようそうじゅは、桓石康と合流するなり襄陽をともに攻撃、庾仄の軍はたちまち散り散りとなった。庾仄は姚興ようこうのもとに逃れ、庾彬らはみな殺された。


長沙相ちょうさしょう陶延壽とうえんじゅは桓亮が乱に乘じて攻めかかろうとしていると認識、兵を動かし捕縛した。桓玄は桓亮を衡陽こうように軟禁し、共謀者の桓奧かんおうらについては処刑した。


桓玄はいつわりの上表にて江陵に帰還したいと願い、自らの手で詔勅を偽作しその却下を大々的に宣伝させた。その上で更に帰還したい旨を上表、ふたたび安帝の言葉とうそぶき、桓玄をどうしても手元に置きたいのだと宣言させた。


桓玄はこうした偽りの言葉にて簡牘を汚すことを好んだ。また天命が入れ替わる際には瑞祥のたぐいが起こるものだ、ということで、会稽にある臨平湖りんへいこに繁茂する草木が退き、が澄み渡った、という報告を自作自演し、多くの官僚を集め祝賀させた。




新野人庾仄聞玄受九錫,乃起義兵,襲馮該於襄陽,走之。仄有眾七千,于城南設壇,祭祖宗七廟。南蠻參軍庾彬、安西參軍楊道護、江安令鄧襄子謀為內應。仄本仲堪黨,桓偉既死,石康未至,故乘間而發,江陵震動。桓濟之子亮起兵于羅縣,自號平南將軍、湘州刺史,以討仄為名。南蠻校尉羊僧壽與石康共攻襄陽,仄眾散,奔姚興,彬等皆遇害。長沙相陶延壽以亮乘亂起兵,遣收之。玄徙亮於衡陽,誅其同謀桓奧等。

玄偽上表求歸籓,又自作詔留之,遣使宣旨,玄又上表固請,又諷天子作手詔固留焉。玄好逞偽辭,塵穢簡牘,皆此類也。謂代謝之際宜有禎祥,乃密令所在上臨平湖開除清朗,使眾官集賀。


(晋書99-15)




臨平湖

この湖まわりの植生が整い、その流れの滞りが解消されると、天下が安泰になると「末、孫皓そんこうの時代に」語られている。なおその言い伝えを聞いたある者は「ああ、つまり孫皓様が滅ぶってことか」と解釈したそうである。えっこれ祝賀していいの?

まあ多分もっと前、春秋越しゅんじゅうえつあたりから言い伝えなのかもしれませんね。

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