桓玄14 兄の死による危惧

○晋書


403 年、桓玄かんげんの兄、桓偉かんいが死亡。開府かいふ驃騎將軍ひょうきしょうぐんか追贈され、代任を桓脩かんしゅうに務めさせることとなった。ただし從事中郎じゅうじちゅうろう曹靖之そうせいしは桓玄に、桓沖かんちゅうの子どもたちに要職をあまり与えすぎれば権勢を奪われてしまいかねない、と語る。桓玄もこの言葉を受け入れ、南郡相なんぐんしょうであった桓轄かんかつの息子、桓石康かんせきこうに、改めて西中郎將にしちゅうろうじょう荊州刺史けいしゅうししの地位につかせた。

要は桓偉の職務を一旦桓脩に与えたが、すぐ桓石康に与え直した形である。


桓偉の服喪に当たり、桓玄は自らに公除の礼を採用した。帝王が国事を取り扱い続けねばならない以上、喪服を着ている場合ではない、とする制度である。また桓玄は兄のために葬礼の楽曲を編んだ。その曲が奏でられると桓玄は節をなでながら慟哭するも、やがて涙が尽きると賓客らと歓談に興じた。


桓玄が信頼し、頼るに値すると考えていたのは桓偉のみであった。その桓偉に死なれ、桓玄は自らの立場を危ういものと認識する。すでに晋の臣下としての振る舞いは擲っている。各地よりの恨みも多く抱えていることもまた自覚していたため、速やかな簒奪をなさねばならない、と考えた。殷仲文いんちゅうぶん卞範之べんはんしらもまた簒奪を催促する。そこで簒奪に先立ち高官の入れ替えを行った。琅邪王ろうやおう司馬徳文しばとくぶん司徒しとを解任とし太宰だざいに移した。ただし殊禮しゅれいを加え、皇帝に準ずる待遇とした。また桓謙かんけん侍中じちゅう衛將軍えいしょうぐん、開府、錄尚書事ろくしょうしょじとし、王謐おうひつ散騎常侍さんきじょうじ中書監ちゅうしょかんとして司徒しとを兼務、桓胤かんいん中書令ちゅうしょれいとし、桓脩を散騎常侍さんきじょうじ撫軍大將軍ぶぐんだいしょうぐんとした。


また學官がくかんを設置し、門地二品の子弟ら数百人を入学させた。そして詔勅を捏造、自らを相國しょうこく總百揆そうひゃっきとし、南郡なんぐん南平なんへい宜都ぎと天門てんもん零陵れいりょう營陽えいよう桂陽けいよう衡陽こうよう義陽ぎよう建平けんぺいの十郡を楚国そこくとし、自らを楚王そおうとした。揚州牧ようしゅうぼく平西將軍へいせいしょうぐん豫州刺史よしゅうししであることはもとのままとした。更に九錫きゅうしゃくの祭具を自らに与え、楚國には丞相じょうしょう以下の宰相たちを舊典に則り配備した。


加えて司馬徳宗しばとくそうにはしばしば禅譲詔勅をもたらすよう圧力を掛けた上で辞退を繰り返した。その上で司馬徳宗には更に群僚に対して桓玄に帝位につくよう懇願せよ、と詔勅を下した。その中には「わしが自らこの座から退けば、新たな帝王に天命が下ることとなろう」という一文があった。


桓玄は続いて詔勅を捏造、父の桓溫かんおんを楚王し、南康公主なんこうこうしゅ司馬南弟しばなんてい楚王后そおうこうとした。平西長史へいせいちょうし劉瑾りゅうきん尚書しょうしょに、刁逵ちょうき中領軍ちゅうりょうぐんに、王嘏おうか太常たいじょうに、殷叔文いんしゅくぶん左衛さえいに、皇甫敷こうほふ右衛うえいに任じたのを始めとし、総勢六十名あまりが楚の官屬としてつけられた。桓玄は自身の平西、豫州を解任とし、平西将軍府の文武をみな相國府しょうこくふに配した。



○魏書


桓玄の簒奪に対しての思いが書かれる。桓温がまもなく王業を成し遂げられたにもかかわらず、自らがあまりにも幼かったためその偉業を成し遂げきれなかったことを、常々怨みとしていたのである。やがて司馬曜しばようが死に、各地に謀を巡らせ、ついには簒奪直前にまでこぎつけた。もはやそこには晋帝の下に甘んじようという気持ちもさらさら無かった。王謐より相國の印綬を授けさせ、光祿大夫こうろくたいふ武陵王ぶりょうおう司馬遵しばじゅんより楚王の璽策を授けさせた。




是歲,玄兄偉卒,贈開府、驃騎將軍,以桓脩代之。從事中郎曹靖之說玄以桓脩兄弟職居內外,恐權傾天下,玄納之,乃以南郡相桓石康為西中郎將、荊州刺史。偉服始以公除,玄便作樂。初奏,玄撫節慟哭,既而收淚盡歡,玄所親仗唯偉,偉既死,玄乃孤危。而不臣之跡已著,自知怨滿天下,欲速定篡逆,殷仲文、卞範之等又共催促之,於是先改授群司,解琅邪王司徒,遷太宰,加殊禮,以桓謙為侍中、衛將軍、開府、錄尚書事,王謐散騎常侍、中書監,領司徒,桓胤中書令,加桓脩散騎常侍、撫軍大將軍。置學官,教授二品子弟數百人。又矯詔加其相國,總百揆,封南郡、南平、宜都、天門、零陵、營陽、桂陽、衡陽、義陽、建平十郡為楚王,揚州牧,領平西將軍、豫州刺史如故,加九錫備物,楚國置丞相已下,一遵舊典。又諷天子御前殿而策授焉。玄屢偽讓,詔遣百僚敦勸,又云:「當親降鑾輿乃受命。」矯詔贈父溫為楚王,南康公主為楚王后。以平西長史劉瑾為尚書,刁逵為中領軍,王嘏為太常,殷叔文為左衛,皇甫敷為右衛,凡眾官合六十餘人,為楚官屬。玄解平西、豫州,以平西文武配相國府。

(晋書99-14)


玄所親仗,惟桓偉而已,先欲徵還,以自副貳。偉既死,玄甚恇懼。初,玄常以其父王業垂成,以己弱年,不昌前構,常懷恨憤。及昌明死,便有四方之計,既克建業,無復居下之心。及偉死,慮一己單危,益欲速成大業。卞範之之徒,既慮事變,且幸其利,咸共催促,於是殷仲文等並已撰集策命矣。德宗加玄相國,總百揆,封南郡、南平、宜都、天門、零陵、桂陽、營陽、衡陽、義陽、建平十郡為楚王,備九錫之禮,揚州牧、領平西將軍、豫州刺史如故。遣司徒王謐授相國印綬,光祿大夫武陵王司馬遵授楚王璽策。德宗先遣百僚固請,又云當親幸敦喻。

(魏書97-11)




桓偉が生きていたらどうなってたのかとは思うんですが、とは言え桓謙桓修兄弟みたいな桓玄にとっての不安要素も結構大きかったみたいだし、どこまで安定したのやら。


にしても皇帝につくために自分から頑張ってヘイトを稼ぎまくるこの姿勢、どーにもしっくりとこなさすぎて困ります。いや、そんなもんなのかも知んないですけど、そこまで人間って愚かなのかぁ? ……とゆう。


まぁ、そういった愚かしさもあったものと想定はすべきなんでしょうね。

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