桓玄13 簒奪準備

○晋書


桓玄かんげんは朝廷に司馬元顯しばげんけんを平定した功績から自身を豫章公よしょうこうとし、安成郡あんせいぐん 90km 四方、7500世帯分の食邑を、また殷仲堪いんちゅうかん楊佺期ようせんきを討伐した功績から桂陽郡公けいようぐんこう 30km四方、食邑2500世帯分を封爵すべき、とゴリ押しし、またもとの封爵地である南郡なんぐん公位はもとのままとすべき、とした。その上で豫章郡公位を息子の桓昇かんしょうに与え、桂陽郡公を桓偉かんいの子である桓浚かんしゅんに与えたうえ、西道縣公せいどうけんこうに降格とさせた。さらに詔を発布させ、桓溫かんおんいみなとし、姓名が同じものを改めさせた。母の馬氏ばし豫章公太夫人よしょうこうたいふじんとした。


403 年、桓玄は姚興ようこうを討伐すると偽りの上表をなし、さらには朝廷に圧力をかけ不許可の詔勅を下させた。桓玄にはもともと軍資も指揮力もなく、一方で大言壮語を吐くことを好んだ。このためそもそも遠征に出るつもりもなかったのに「詔勅を賜ってしまってはな〜、仕方がないよな〜!」などと言い出し、遠征中止を喧伝したのである。


さて、遠征喧伝のための軍装を整えるにあたり、まず考えたのは船飾りの意匠であり、他の要素は特に考えなかった。はじめに建造させたものが輕舸けいか、いわば機動力に長けたボートである。桓玄はそのボートに洋服、嗜好品、書跡か絵画などを積ませた。さすがに趣味丸出しなのでは、とあるものが諌めると、桓玄はこう返している。


「書畫服玩はそばに置いてこそ意味がある。しかも仮に作戦に齟齬をきたし逃亡せねばならなくなったとしても、これらは大してかさばらぬし、逃げ足の邪魔にもならん」


この話を聞き、皆は失笑した。



○魏書


司馬道子の配流の道中における毒殺に触れ、また安帝の衣食を大きく制限し、飢え、凍えほどの暮らし向きとさせた。大逆こそ未だなしていなかったが、もはや君臣の礼は存在しなかった、と語る。




玄諷朝廷以己平元顯功,封豫章公,食安成郡地方二百二十五里,邑七千五百戶;平仲堪、佺期功,封桂陽郡公,地方七十五里,邑二千五百戶;本封南郡如故。玄以豫章改封息升,桂陽郡公賜兄子浚,降為西道縣公。又發詔為桓溫諱,有姓名同者一皆改之,贈其母馬氏豫章公太夫人。元興二年,玄詐表請平姚興,又諷朝廷作詔,不許。玄本無資力,而好為大言,既不克行,乃雲奉詔故止。初欲飾裝,無他處分,先使作輕舸,載服玩及書畫等物。或諫之,玄曰:「書畫服玩既宜恆在左右,且兵凶戰危,脫有不意,當使輕而易運。」眾咸笑之。

(晋書99-13)


玄自封豫章郡公,食安成七千五百戶;後封桂陽郡公,邑二千五百戶;本封南郡如故。既而鴆殺道子。玄削奪德宗供奉之具,務盡約陋,殆至飢寒。雖殺逆未至,君臣之體盡矣。進位大將軍,加前後部羽葆鼓吹,奏事不名。又表請自率諸軍,命諸蕃方兵掃平關洛,德宗不許之。玄本無資力,但好為大言,既不辦行,乃云奉詔故止。玄既無他處分,先作征行服玩,并制裝書畫之具。或諫曰:「今日之行,必有征無戰,輜重自足相運,不煩復有制造。」玄曰:「書畫服玩,宜恒在左右,且兵凶戰危,脫有意外,當使輕而易運。」眾咸笑之。

(魏書97-10)




お、魏書の内容これ司馬休之の劉裕討伐に関する上奏からもってきてそうですね。というか「君臣の礼を損ねた大罪人」的テンプレなのかな。このへんは王莽、曹操、司馬懿に逆らった勢力の上表やら檄文に見られそう? あるいは春秋戦国にもあるのかな。


対桓玄、対劉裕で見られる形式ってことが、そうしたテンプレートの存在の可能性も示唆している、と言ったお話。まぁ存在してるからなんだって話にもなるんですが。

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