桓玄12 姑孰移鎮

○晋書


桓玄かんげん建康けんこうをあとにし、姑孰こじゅくに拠点を構えるにあたり、様々な人士に挨拶をした。このとき王謐おうひつが桓玄に言っている。


「『春秋公羊伝しゅんじゅうこうようでん文公ぶんこう十三年にもございます、周公旦しゅうこうたんがなぜ魯の統治を伯禽に一任し、自身は封地に赴かなかったのか、しゅうのもとに天下を統一せんがためである、と。桓玄様におかれても、どうかまずは根本たる建康をお鎮めになり、周公旦のお心に副う政をなさってくださりませぬでしょうか」


桓玄はその応対を良きものである、と讃えたが、結局従うことはなかった。そして大いに城府・台館・山池を建設、いずれにしても壮麗でないものはなかった。そして姑孰に出鎮。錄尚書事ろくしょうしょじを固辞する旨上表し、受け入れられた。政の重要なものについては自らが決裁にあたったが、小事についてはすべて桓謙かんけん卞範之べんはんしに決裁させた。


孫恩そんおんの乱勃発以降、戦乱が収まることもなく、人々は争乱を疎んじていた。いい加減指揮系統が統一されてほしい、と願っていたのである。ここで桓玄が建康にやって来たとき、凡夫佞人を罷免し俊賢を抜擢したため、君子による政の道筋が整いつつある、と皆が歓喜した。しかしまもなくその桓玄が朝廷機能を蔑ろとし、宰相を排斥し、その豪奢ぶりをほしいままとし始めた。人々には多くの雑務が押しつけられるようになり、瞬く間に朝野の期待は打ち砕かれた。


またこの頃會稽かいけいが飢饉に陥っていたため、桓玄は国庫を開き、臨時の貸し付けができるように命じた。この頃会稽周辺の民は湖や川べりに生える草を採取して食いつなぐような有様であったが、会稽內史かいけいないしを務めていた王愉おうゆはこうした民をみな強制的に家へと追い払った。その民が帰途につくにあたり米を請うたが、もともと揃えられた米は大した量でなく、加えて官吏らがその配給を渋ったため、帰途についた民は十のうち八~九が道端で死んだ。


桓玄はまた吳興太守ごこうたいしゅ高素こうそ輔國將軍ほこくしょうぐん竺謙之じくけんし、その從兄の高平相こうへいしょう竺朗之じくろうし輔國將軍ほこくしょうぐん劉襲りゅうしゅう、その弟の彭城內史ほうじょうないし劉季武りゅうきぶ冠軍將軍かんぐんしょうぐん孫無終そんむしゅうらを殺害した。彼らはみな劉牢之りゅうろうしの配下将であり、北府ほくふの旧將であった。劉襲の兄である冀州刺史きしゅうしし劉軌りゅうき甯朔將軍ねいさくしょうぐん高雅之こうがし、劉牢之の子の劉敬宣りゅうけいせんらはみな南燕なんえん慕容德ぼようとくのもとに亡命した。



○魏書


劉牢之の敗亡について補足情報として記している。また姑孰に移ったあとの乱政にも触れる。会稽の飢饉まわりについては富豪たちが一歳飢えた民を救う行動に出なかったため多くのものが死んだと書かれている。




玄將出居姑孰,訪之于眾,王謐對曰:「公羊有言,周公何以不之魯?欲天下一乎周也。願靜根本,以公旦為心。」玄善其對而不能從。遂大築城府,台館山池莫不壯麗,乃出鎮焉。既至姑孰,固辭錄尚書事,詔許之,而大政皆諮焉,小事則決於桓謙、卞範之。自禍難屢構,干戈不戢,百姓厭之。思歸一統。及玄初至也,黜凡佞,擢俊賢,君子之道粗備,京師欣然。後乃陵侮朝廷,幽擯宰輔,豪奢縱欲,眾務繁興,於是朝野失望,人不安業。時會稽饑荒,玄令賑貸之。百姓散在江湖采穭,內史王愉悉召之還。請米,米既不多,吏不時給,頓僕道路死者十八九焉。玄又害吳興太守高素、輔國將軍竺謙之、謙之從兄高平相朗之、輔國將軍劉襲、襲弟彭城內史季武、冠軍將軍孫無終等,皆牢之之黨,北府舊將也。襲兄冀州刺史軌及甯朔將軍高雅之、牢之子敬宣並奔慕容德。

(晋書99-12)


以劉牢之為會稽內史,將欲解其兵也。初,敬宣既降,隨入東府,至是求歸。玄冀牢之受命,乃遣之。敬宣既至,牢之知將不免,欲襲玄,眾皆離散,乃於班瀆北走,縊於新洲。傳首建鄴。敬宣奔於江北。玄白德宗,大赦,改年為大亨。玄讓丞相、荊江徐三州及錄尚書事。乃改授太尉、都督中外、揚州牧、領平西將軍、豫州刺史;綠綟綬,加袞冕之服,劍履之禮,入朝不趨,讚拜不名,增班劍六十人,甲仗二百人入殿。玄乃鎮姑熟。既而大築府第,田遊無度,政令屢改,驕侈肆欲,朋黨翕習,沮亂內外。朝政皆諮焉,小事則決於左僕射桓謙及丹陽尹卞範之。玄大賦三吳富室,以賑飢民,猶不能濟也。東郡既由兵掠,因以飢饉,死者甚眾。三吳戶口減半,會稽則十三四,臨海、永嘉死散殆盡。諸舊富室皆衣羅縠,佩金玉,相守閉門而死。

(魏書97-9)




公羊伝文公十三年条

周公之魯乎?曰:「不之魯也。」封魯公以為周公主,然則周公曷為不之魯?欲天下之一乎周也。

周公旦は魯に行ったのだろうか? 行かなかった。なぜ魯公の筈の周公旦を周公として祭祀しているのだろうか? 周公旦自身があくまで周の元に天下をひとつとすべく働いたためである。


つまり桓玄には周公旦のように中央で政を取ってください、と懇願したことになる。のだけれど、成王せいおうの時代に成王は鎬京こうけい(ほぼ長安ちょうあん)に召公奭しょうこうせきと共におり、周公旦自身は洛邑らくゆう(ほぼ洛陽らくよう)を統治した。ってことは別に建康-姑孰体制もそれに近いんじゃね? とは思わずにおれない。なので桓玄くんとしてはここで「王謐殿が鎬京にあることを思えば、これぞ周公旦の御心に副う動きと言えるのです」と切り返せるとよかった。いやよくないけど。


にしてもここで殺されてる劉牢之配下諸将と劉裕りゅうゆうのクーデター謀議参列者とを照らし合わせると、北府軍出身で後の義熙政権軍閥の中心に立つことになる人物を洗い出せそうですね。そして名前がまともに扱われない人物たちはおそらく、劉毅派についた。そういう仮説を立てられなくなくもなくはない。ないかな。まぁ妄想のネタとしてはおいしそうなので後日やってみます。

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